また1頭…。
サニーブライアンが逝ってしまいました…。
「97年の2冠馬サニーブライアンが死亡」(http://www.sanspo.com/keiba/news/110304/kba1103041802009-n1.htm)
JRA(日本中央競馬会)は4日、97年に皐月賞(GI)と日本ダービー(GI)を制したサニーブライアンが3日、疝痛(腹痛を伴う病気)のため死亡したと発表した。
サニーブライアンは96年10月に東京競馬場でデビュー(3番人気1着)。ジュニアCで2勝目を挙げ、弥生賞(GII)で3着に入り皐月賞への出走権を獲得。皐月賞では11番人気の低評価を覆しGIホースの仲間入りを果たすと、6番人気で出走した日本ダービーも逃げ切り2冠を達成した。
日本ダービー後は故障により出走できず、そのまま引退。JRA通算10戦4勝、2着1回、3着1回の成績だった。引退後は種牡馬として05年の中日新聞杯(GIII)を制したグランリーオ、03年の愛知杯(GIII)を勝ったカゼニフカレテなどを輩出した。
…サニーブライアンには。
「ありがとう」の一言しかありません。
(こんなことを言うと「おまえは大西直宏か!」と山のようなツッコミ入りそうですが)
なぜか低評価だった皐月賞馬。
でも、不思議と、馬券ビギナーだった自分には見えたのです。
「2冠達成」の瞬間が。
今の自分なら、おそらくメジロブライトかシルクジャスティスに◎を打っていたと思います。
また、同じ逃げ馬を軸にするなら、サイレンススズカのほうを抜擢していたと思います。
でも、競馬を見始めて3年目、馬券を買い始めて2年目の自分には、ハッキリと見えていたのです。
「2冠達成」の瞬間が。
「サニーブライアンだ、サニーブライアンだ、これはもう、フロックでも、なんでもない!」
三宅正治アナウンサーの絶叫を夢うつつで聞いたような記憶があります。
サニーブライアンから6点ながしの馬券を持っていた自分は。
シルクジャスティスとの馬連4,860円を当たり前のようにゲットし。
50,000円近い収益を(リアルで)上げることができました。
馬券でそんなに大勝したのは、後にも先にも1回っきりでした。
菊花賞のことを聞かれて「(2冠と同じように)逃げます!」と答えた大西直宏の夢は。
数日後の故障判明で霧消してしまいました。
そして、この逃走劇が、サニーブライアン最後の雄姿となってしまったのは、皮肉な結果でした。
サニーブライアンが勝った日本ダービーの出走馬18頭(出走直前に競走除外になったシルクライトニング含む)のうち。
後に5頭がGI馬の栄光に輝きました*1。
しかし、物故馬もまた少なくありません*2。
個人的に、競馬が1番面白かった1997年。
その年のダービー馬は、サニーブライアン。
これは揺るぎのない事実です。
逃走劇なら、翌年に競走馬として完成して以降のサイレンススズカのほうが遥かにレヴェルが上かもしれません。
サイレンススズカのそれは、持っている天性のスピードの違いを利した、自然体の逃げでしたし。
しかし。
サニーブライアンの逃げは。
「無心」にその意義があったのかもしれません。
それは、サニーブライアンだけでなく、生涯唯一のパートナーであった大西直宏もそうだったのかもしれません。
前哨戦の弥生賞と若葉ステークスで、ハナに立つことができず敗れたことで。
大西直宏は「皐月賞は何が何でも逃げにこだわる」決意をしたのだといいます。
結果、11番人気で逃げ切り*3。
そして、日本ダービーでも、6番人気という皐月賞馬にあらざる低評価をあざ笑うように逃げ切ってみせました。
それは、彼が「この道より我を活かす道なし」を知っていたからに他ならないような気がします。
そして、大西直宏もまた。
自分の競馬史を語るのに。
欠かすことのできない1頭です。
お疲れさま、ゆっくり休んでください。そしてありがとう。
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