聴きたくなかった知らせ…

先々週辺りから『サンデーモーニング』の例の「喝」のコーナーをお休みされていたので。
もしかしたら体調優れないのかな…と心配していたところでした。


そもそも。
幼い日の自分が日本ハムファンになったのは、この人の存在がきっかけでした。
12球団の監督のいろんな数値の比較表があるなかで、「酒の強さ」という項目で、この人だけが満点の「100」だったのが、幼稚園児の自分的になぜかツボにハマってしまった…という他愛もないものでしたが。
「この大沢監督ってスゴいな。チーム名も日本ハムで面白いし、これからこのチーム応援しよう」と思って以来、もう×年のファン歴です。
時の移ろいを感じずにはいられません。


幼い頃。
1度だけ、生でこの人に会ったことがあります。
奇しくも今自分が住んでいる平塚のデパートに、サイン会に来ると聞いて、母親に連れていってもらいました。
少年ファイターズ会の会員しかもらえないレプリカユニに帽子という姿で出掛けたら、とても喜んでくれました。
「また後楽園に応援に来てくれよな!」と力強く言ってくださったことを、鮮明に覚えています。


そのときサインしてもらったボールは。
↓今も大切に取ってあります。

随分と年季の入ったボールになってしまいましたが…。


チームを初めて*1の優勝に導いてくれたこと。
涙が出るほど嬉しかったです。
…まさか、その後25年も待たされるとは思いもしませんでしたが。


訃報を耳にして。
信じたくない気持ちのほうが大きかったです。
2007年9月19日、「幸雄最後の東京ドーム」の試合で始球式を務め、鶴岡のミットにストライクの直球を放り込むのを見て「こんな75歳見たことない!」と舌を巻かされましたが…あれからまだ3年しか経ってないのに、早すぎますよ。


訃報に接し。
球団関係者がコメントを寄せていました。
結婚の際に媒酌人を務めてもらったという幸雄や、ファイターズに入団した頃はなかなか名前を覚えてもらえなかったという稲葉のコメントなどいろいろとあったのですが。
最後に掲載されていた、ヒルマンのコメントで紹介されていた、ヒルマンにこの人が語ったという言葉「ファイターズを頼んだぞ。この球団は、オレにとって何より大事なんだ」を見て。
涙が止まりませんでした。


あなたがいたから、ファイターズファンの今の自分があります。
決して忘れません。


ありがとう、大沢親分


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*1:前身の東映フライヤーズ時代、昭和37年(1962年)に1回優勝経験ありますが。