媚・妹・Baby

というわけで、「目下最大の売り」であるところの「日本史」です。「…1発目からこんなネタでいいのか?」と自問自答しつつ用意したネタは、これ。


古代の日本と現代の日本とでは、当然のことかもしれませんが、「近親婚」についてのタブーもまた違ったものでした。現行民法ではNGであるところの「叔父&姪」なんて結婚も、古代ではノープロブレム。天武天皇持統天皇という組み合わせがこれに当たります。
さらに、兄弟姉妹の間の結婚はどうだったのかといいますと…。
これもまた「一部可」だったわけなんです。「異母(あるいは異父)の兄弟姉妹であればOK」。競馬の世界風に言えば「半兄弟姉妹なら」です(笑)。有名なところでは、推古天皇の夫であった敏達天皇は彼女の異母兄でしたし、聖徳太子の両親(父:用明天皇、母:穴穂部間人皇女)も異母の兄妹でした(この2人に至っては「母の父」まで蘇我稲目で共通です。競馬の世界で言うところの「3/4兄妹」)。
なぜかというとですねえ…。諸説あるんですが、一般的に言われているのは「当時は招婿婚だった」というのが大きな理由でしょうか。つまり、「生まれた子供は全て母方で育てられるので、異母だと兄弟姉妹という感覚が希薄であった」ということみたいです。私が読んだモノの本によれば、そんな理由でした。


ここからが今回の本題。
現代と比べて近親婚のタブーが緩やかであった古代でありますが、さすがに「同父同母の兄弟姉妹」の結婚はタブーでした。ここいらへんが禁忌となった理由まではチト分かりませんが、まあそういうことになってたみたいです。
で、今回の主人公である木梨軽皇子の話となります。
第19代允恭天皇の皇太子として次期天皇の位が約束されていた彼は、同母の妹である軽大郎女とデキてしまいます。何がきっかけで同母の妹に萌えてしまったのかは各文献ともにつまびらかにはしていませんが(笑)、まあ萌えた結果として2人が燃えてしまったことだけは(笑)事実として間違いなさげです。
皇太子が犯した最大のスキャンダル、現代なら「女性誌の格好のネタとなって終了」で済んだんでしょうけど、当時はそうはいきませんでした。彼は自分の恋心に真っ正直に突っ走ってしまったために、あまりに大きな代償を払うこととなってしまったのです。
允恭天皇崩御の後、人臣の心は木梨軽皇子から離れ、弟の穴穂皇子を擁立する動きが大きくなりました。追い詰められた木梨軽皇子は兵を起こして一発逆転を図ったのですが、衆寡敵せず、敗れてしまいます。そして、廃太子の末に、伊予に流罪となりました(殺害されなかったのは、穴穂皇子が「兄を殺すことを躊躇したから」だといいます)。
近親婚のタブーが緩やかであった古代ですが、緩やかであったがゆえに、そのタブーのデッドラインを踏み越してしまった者にはどんな厳罰が下されていたか、ということがよく分かります。何しろ、皇太子でさえ位を廃されて流罪になるぐらいですから。ちなみに、穴穂皇子は、即位して第20代安康天皇となりました。


で、この2人の話にはさらに悲しい後日談があります。
「妹の軽大郎女が、兄を追いかけて伊予まで駆けつけ、そこで2人は心中した」というエピローグです。
逢えないのなら生きている甲斐がない、いっそのこと、現世でひと目逢って、来世での契りを約束しよう、とでも思ったのでしょうか。それにしても、深窓の皇女が大和から伊予まで追いかけていったって事実1つだけ取ってみても、この2人がどんなに思い焦がれていたかがお分かりいただけるのではないでしょうか。今奈良から愛媛に行くのとはわけが違いますし(笑)。まさに「命を賭けた恋」に殉じた2人、と言えるでしょう。


ちなみに、今回の話、ベースとした出典は『古事記』です。『日本書紀』のほうでは、近親相姦が判明した直後に「皇太子を流罪にするわけにはいかないので、軽大郎女のほうを伊予に流した」と、多少ディテールが異なるストーリーになっています。