知識は、塗り替えられる。

今回は、まずこの人の実績から紹介します。

後醍醐天皇を父に、北畠師親の女親子を母に、延慶元年(1308年)誕生。若くして出家し、尊雲法親王と名乗り比叡山天台座主となったものの、父帝の討幕運動が本格化するのに伴い、元弘2年(1332年)還俗*1。父帝が隠岐流罪となった後も兵を率いて戦い、足利尊氏とともに鎌倉幕府六波羅探題を攻め滅ぼすのに功を上げました。
建武の新政後、征夷大将軍に任ぜられたものの、足利尊氏と対立。建武元年(1334年)10月に捕えられ、鎌倉二階堂の土牢に幽閉されました。そして、中先代の乱*2の際、鎌倉を撤退する足利尊氏の弟直義の配下淵辺義博によって殺害されました。

さて、この人は誰でしょう?


すぐ解答。
正解は「大塔宮 護良親王」です。


そこで、次の問題。
何と読むでしょう?


「だいとうのみや もりながしんのう」


と読む方大勢いらっしゃると思います。
こういう言い方ナニですが、年配の方ほどそう読む傾向強いと思います。
かつては日本史の授業などではそう教えられていましたし(自分もその読み方で教わりました)。


ところが。
最近の研究では


「おおとうのみや もりよししんのう」


と読むのが正しいのではないか、という説が有力になってきたようです。


これは、「大塔宮」という呼称が、彼が延暦寺の大塔に入室していたことにちなんでいるため、そちらの読みと合わせるべきだという考え方に基づいているらしいです。
「良」については、国語学上中世において「ナガ」という読みをしていた例がない…ということらしいです(こちらについては記憶あやふやです、すみません。間違っていましたらぜひ訂正してください)。


このように、日本史の世界では、かつて正しいと教えられていた知識が、いつのまにか別の知識に塗り替えられている、ということが枚挙に暇がありません。
柳条湖事件*3なんかも、かつては「柳条溝事件」と教えられていたようですし。


余談ですが、護良親王が幽閉されていた土牢近くに、明治2年(1869年)に彼を祀る神社が建てられました。「鎌倉宮」と呼ばれる神社がそれです。その神社の別名や最寄のバス停も「大塔宮」というのですが、これらはかつて使われていた「だいとうのみや」という呼称のままです。固有名詞として定着してしまった、ということなのでしょう。


NHK大河ドラマ『太平記』では堤大二郎が彼の役を演じていました。人気blogランキング

*1:出家した者が僧籍を離れ、再び俗世間に戻ること。

*2:鎌倉幕府第14代執権北条高時の遺児時行が起こした反乱

*3:昭和6年(1931年)9月18日、奉天郊外の柳条湖で起こった南満州鉄道の爆破事件。これをきっかけとして満州事変が始まった。