骨肉相争う…

あらかじめ用意していたネタはほかにあったのですが、長くなりそうなので「1回後回し」ということで。
今日の見出し関連のネタを。


源義平は、源義朝の長男であり、頼朝の兄に当たります。勇猛果敢な武将として知られ、「悪源太」の異名で呼ばれていました*1。1159年に起こった平治の乱の際には平清盛の長男重盛と一騎討ちを行い、紫宸殿の左近桜、右近橘の周りを7回回ってあわやというところまで追い詰めたというエピソードがあります。
一方、源義賢は、義朝のすぐ下の弟です。皇太子時代の近衛天皇に仕え、「帯刀先生(たてわきせんじょう)」の異名で呼ばれていました。早くに東国に下向し、武蔵国比企郡に本拠を置いていたといいます。
この2人、叔父・甥の間柄ではありますが、不和だったようです。義朝と義賢(+その父為義)との対立図式にのっとった形で義朝の長男義平とも争ったとも、所領をめぐって諍いがあったともいいます。
ともあれ、2人の対立は「甥が叔父を討つ」という形で決着を見ることになります。一説によると、義平は叔父の義賢を討ったことによって「悪源太」の称号を名乗るようになったともいいます。そして、このとき2歳で、かろうじて命を拾った義賢の次男こそが…後の木曽義仲その人です。


義平は、平治の乱で敗れた後の1160年1月、父の死を聞き、平清盛を討とうと上洛したものの、平家の家人難波経房に捕らえられ、六条河原で斬首されました。その刑死に際し、経房に「雷神となって経房以下の怨敵を伐たん」と語ったと伝えられ、数年後に経房は本当に雷に打たれて死んだといいます。


「雷様」と言っても高木ブーとは無関係と思われ。人気blogランキング

*1:ここでいう「悪」は、「悪いヤツ」という意味の蔑称ではなく、「強いヤツ」という意味の美称だったといいます。