人は、最期の瞬間に価値が決まる。

長らくお待たせしていた「日本史」カテゴリです。いつ以来だろ?*1


今度、ゆえあってホテル・ニューオータニまで出向くことになりました。
赤坂見附から紀尾井坂を上がる途中の左手にある、チョー有名ホテルです。


「紀尾井坂」といえば、日本史マニアとしては「紀尾井坂の変」を思い出さずにはいられません。
明治11年1878年)5月14日、参議兼内務卿大久保利通が、石川県士族島田一郎*2ら6人に暗殺された事件です。


この暗殺犯たちは、同年7月27日、いずれも「除族ノ上斬罪」*3の判決を受け、即日執行されました。


この執行のときの様子について、興味ある逸話が残されているので、紹介したいと思います。
島田一郎とともに暗殺計画を練り、実行犯となった、長連豪(ちょう・つらひで)についての話です。
岩波文庫の『明治百話』に収録されている、首斬り役を務めた8代目山田浅右衛門こと山田吉亮(よしふさ)の談話を引用しようかと思ったのですが、それに取材していると思われる綱淵謙錠直木賞受賞作『斬』の描写のほうが分かりやすいので、そちらのほうを引用します。

島田に較べて長連豪(二十三歳)は、まだ若年ながら、吉亮の感動を呼ぶものがあった。島田よりは人物が上だな、と吉亮は思った。吉亮は長連豪が西郷隆盛のもとで感化を受け、西南戦争勃発の前、西郷の愛犬をもらいうけて帰国したという話を耳にしたことがある。長の落ち着いた挙措動作をながめているうちに、しみじみと「西郷さんてやはり偉い人だったのだなあ」と感嘆している自分に気づき、場ちがいだと知って心中苦笑を浮べた。
「何か申し遺すことでもおありならば」
と、吉亮が島田にしたのと同じ質問をすると、長は軽く会釈をして、
「北はどちらでしょうか」
と問うてきた。吉亮がその方角を指で知らせると、そちらに向かって三拝九拝しながら口に何事かをつぶやいていた。拝し終ると、
「北はわたくしの故郷で、いまなお母上が存生なものですから……」
と説明し、
「ご配慮かたじけのうござった。では」
と正面に向って、血溜りに首を差延べた。
吉亮は首打役をしてはじめて、「刀の錆にするのが惜しい」という気持ちを味わった。

「暗殺」を肯定するものでは到底ありません。
でも、暗殺犯にも、それぞれ信念があり、また家族もあり、感情もあったのもまた真実だと思います。
どうしても「島田一郎ほかが…」と「ほか」呼ばわりされることの多い人ではありますが、こんな立派な最期を迎えることができるだけの人物であったということだけは記憶しておきたいと思った次第です。


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*1:自己レス。8月16日以来。11日も空いてしまっていました。いくら忙しかったからといってもこれはヒドすぎ…。

*2:「一郎」は「一良」と表記したという説もあります。これは、明治の初め頃までは名前の読みさえ合っていれば漢字表記にはあまりこだわらなかった風習があったことによると思います。

*3:「除族」とは「士族の地位を剥奪すること」です(参考:http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20050607#p2)。ただ、暗殺犯の1人脇田巧一は士族ではなく平民だったので「斬罪」のみの判決を受けました。