「ショーケン皇太后」だと別のヒトになってしまうような…

「…さて、今日のネタは何にしようかな」と思案していたところに*1、Bimyoさんとこでこんな文章見つけました(http://d.hatena.ne.jp/Bimyo/20051027#1130407465)。

ちょっと疑問に思ったんだけど、昭憲皇太后って、なんで「皇太后」なの?死んだら○○皇后っていう諡号を送られるんじゃないの?旧皇室典範じゃそう規定してるの?

はぁい、これは私の出番のようですね。では、Bimyoさんの疑問にお答えします。


天皇もそうですが、皇后の場合も「○○皇后」という諡が贈られるのは「崩御した後」のことなんです。
明治天皇の皇后であった一条美子の場合、崩御されたのは、大正3年(1914年)4月11日のことです。既に明治天皇崩御されていたので、当時彼女は「皇太后」という地位にありました。そして、5月9日、宮内庁によって「昭憲皇太后」という諡が贈られることとなりました。
そもそも、この段階で贈られたのが「昭憲皇后」という諡だったら何の問題もなかったわけなんですよ。大正天皇の皇后も、昭和天皇の皇后も、崩御されて追諡される段階ではともに皇太后であったにもかかわらず「貞明皇后」「香淳皇后」と諡が贈られたように、です*2
しかし、大正3年当時の宮内庁の規定がどうなっていたかは定かではありませんが、彼女に贈られた諡は「昭憲“皇太后”」だったわけなのです。そのため、今日に至るまで彼女の尊号はずっと「昭憲皇太后」で統一されているような状態です。皇后であった時代まで含めて。
彼女は崩後、大正4年(1915年)5月1日に明治神宮に合祀されましたが、その際も「昭憲皇太后」の諡で祀られました。


…とここまで書いて、明治神宮のHPに行ってみたんですよ。何かウラが取れないかと思いまして。
バッチリ載っていましたよ。「なぜ昭憲皇后ではなく昭憲皇太后なのですか?」というそのものズバリのコンテンツに(http://www.meijijingu.or.jp/japanese/qa/31.htm)。以下引用。

では、なぜこのような称号をつけてしまったのでしょうか。昭憲さまが崩御されたのは大正3年です。すでに明治天皇崩御され(明治45年7月30日)、大正天皇践祚(せんそ)されたので皇太后となられたのでした。崩御された時はすでに皇太后であらせらたのですが、当時の宮内大臣が昭憲さまのご追号を皇后に改めないで、「昭憲皇太后」としてそのまま大正天皇に上奏し御裁可となったのです。はじめにこの上奏の時点で間違いが生じました。そしてそのまま御祭神名も「昭憲皇太后」としてしまったのです。
このような経緯から明治神宮の御祭神名としてそぐわぬことから「昭憲皇太后」を「昭憲皇后」と改めるよう、御鎮座寸前の大正9年8月9日(明治神宮の御鎮座は大正9年11月1日)明治神宮奉賛会会長徳川家達(いえさと)より宮内大臣宛へ建議が出されました。
しかし諸事の理由から御祭神名を改めることは出来ませんでした。その理由として
 1、天皇より御裁可されたものはたとえ間違っていても変えられない。
 2、すでに御神体に御祭神名がしるされていて、御鎮座の日までに新しく造り直すことが無理。
の二点があげられています。
時代が下って昭和38年12月10日、明年(昭和39年)の昭憲皇太后50年祭にあたり宮内庁へ「昭憲皇太后追号御改定に関する懇願」が神宮より、また崇敬会会長高橋龍太郎より「昭憲皇太后追号御改定につき御願」が提出され、続いて昭和42年12月26日に明年(昭和43年)明治維新百年にあたり再度「御祭神の御称号訂正につき懇願」、崇敬会会長足立正より「御祭神の御称号訂正につき再度の御願」が提出されました。しかし宮内庁の回答は改めないとのご返事だったそうです。
御鎮座当時首相であった原敬は「他日、何かの機会及び形式において昭憲皇太后神功皇后*3檀林皇后*4などの前例によって、一般には昭憲皇后と称し奉りても違法ではないことの趣旨を明らかにしておくことが必要であろう。」と言っています。(『原敬日記』大正9年10月13日)

…いかがですかBimyoさん、これでスッキリ解決ですね。
「当時の宮内大臣が昭憲さまのご追号を皇后に改めないで、「昭憲皇太后」としてそのまま大正天皇に上奏し…」というのが…うーん、という感じですが。ちなみに誰なんだろ?*5


ちなみに、私も知らなかったのですが、諡を贈るときには

亡くなった方にはご生前の時の最高の位でお呼びすることが常例。「皇太后」の称号は「皇后」より下の位になる。

という原則があるようです。同HPによると。
なるほど、だからこそ「貞明皇后」「香淳皇后」だったわけなのですね。しかし「皇后>皇太后」とは知らなんだ。また1つ賢くなりました。


余談ですが、お茶の水女子大学の校歌「みがかずば玉も鏡も何かせむ学びの道もかくこそありけれ」は、昭憲皇太后の詠んだ和歌に曲がつけられたものです*6。女子教育の振興に尽力し、女子師範学校、現在のお茶の水女子大学に多額の下賜金を賜った皇后ならではの御製といえるでしょう。


学生時代にお茶の水女子大学の学園祭でクイズ大会の企画手伝ったことあるの思い出しました。人気blogランキング

*1:高橋景保の「塩漬け」のつづきを書こうかとも思ったのですが、ちーっとばかり根性入れて文章書かないといけなさそうな気配の内容なので後日に延期ということで。

*2:宮内庁のHPにはそれぞれ「昭和26年5月17日,皇太后陛下(貞明皇后とおくり名された。)が崩御になったので,同年6月22日の斂葬の儀を中心として,一連の大喪儀の儀式が行われました」「皇太后陛下(香淳皇后追号された。)が平成12年6月16日に崩御されたので,同年7月25日の斂葬の儀を中心として,種々の儀式が行われました」とあります(http://www.kunaicho.go.jp/01/d01-11.html)。

*3:仲哀天皇の皇后。

*4:嵯峨天皇の皇后。

*5:自己完結。波多野敬直なる人物だそうです。知らん(笑)。

*6:作曲者は東儀季煕。