決戦!油小路

さて、引越し前夜であるにもかかわらず、本日あえて書きたかったことは何かというと…。


表題にもあるとおり、本日は「七条油小路の血闘」が起こった日です。
新撰組から分派して高台寺を本拠地とした、伊東甲子太郎率いる「御陵衛士」。この御陵衛士の面々が、伊東が近藤勇と会談した帰路に新撰組隊士に騙し討ちにされ、その遺骸が七条油小路の路上に放置されているのを引き取りに来て、新撰組と乱闘になった、という事件です。
このとき、伊東に付き従って御陵衛士に加わっていた元八番組長の藤堂平助も、新撰組の刃に倒れています。


御陵衛士に加わってはいたものの、試衛館以来の仲であった藤堂平助のことは近藤勇らは助けたかったようです。
永倉新八の『新撰組顛末記』によると、近藤は「藤堂は伊東と同盟はしているがまだ若い有為の材であるからできるならば助けておきたい」と語っていたようです。


司馬遼太郎の『燃えよ剣』では、このときの様子をこう描いています。

「土方さん、私が出ましょう」
と控えの永倉新八がいった。
「いや、新参隊士にまかせておけ」
「お言葉だが、死人がふえるばかりだ」
永倉はとびだした。
歳三がみていると、永倉は弾丸のように群れの中に突き入って、藤堂の前に出た。江戸血盟以来のふるい友人である。
「平助、永倉だ」
といいながら剣を抜き、軒へ身をよせ、逃げろ、といわんばかりに南への道をひらいてやった。
藤堂は永倉の好意に気づき、駆けだそうとした。安堵したのがわるかったのだろう。背後に油断ができた。その背へ、平隊士三浦某が一刀をあびせた。
藤堂はすでに身に十数創をうけている。
さらに屈せず、三浦を斬ったが、ついに力尽き、刀をおとし、軒下のみぞへまっさかさまに頭を突っこんで絶命した。
(中略)
(剣に生きる者は、ついには剣で死ぬ)
歳三はふと、そう思った。

この描写は、先に挙げた『新撰組顛末記』に取材したようで、「永倉が藤堂を逃がそうとした」「しかし、事情を知らない三浦*1が藤堂に斬りつけた」「藤堂は振り返って三浦の膝に斬りつけたものの、力尽きて息絶えた」と永倉は証言しています。
そのため、藤堂平助の最期の様子はこうである、と長いこと信じられてきました。


しかし、最近の研究では、違った説が浮上してきているようです。


長くなりそうなので、一旦切ります。つづきは後日。人気blogランキング

*1:新撰組顛末記』では名前は「常三郎」とあります。が、これは永倉新八の記憶違いのようで、一般的には「恒次郎(または常次郎)」であったという説が有力とされています。