大人の階段上るシンデレラ

…では、いよいよ本題です。


さてみなさん。
まずは問題から。


「わが国最初の女性の天皇は誰でしょう?」


答えはカンタン。
推古天皇」です。
義務教育を修了していればおそらくわけないであろう問題でした。


しかしみなさん。
推古天皇以前に「女性が皇位に就いた」と見られる例が、少なくとも2例あるのをご存知でいらっしゃいますか?


片方は。
名前を聞いたことがある方も少なからずいらっしゃるかと思いますが。
神功皇后です。
第14代仲哀天皇の皇后であった彼女、天皇が不慮の死を遂げた後、息子の応神天皇が成人するまで「事実上の天皇」として実際に政治をみました。
日本書紀』によると、彼女が摂政として政務を執っていた期間は、実に69年。『書紀』は「巻第九」を彼女の時代でまるまる1巻費やすなど、天皇と同等の扱いをしています。
明治維新以降に歴代天皇からはずされるまで、彼女は「女帝」としてみなされ、歴代に加えられていたようです。ちなみに、『日本書紀』などが伝える系図上は、彼女は第9代開化天皇の5代孫であり、皇族の血を引いているとされています。


さて。
もう片方の女性は誰か。


あまり知られていない人物かもしれませんが。


今回の話の主人公。
飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)がその人です。


実在ならば、5世紀末頃の人と推測されています。
系譜上は2説あります。『古事記』では履中天皇の娘と伝えられ、『日本書紀』では履中天皇の子である市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)の娘であると伝えられています。
第22代清寧天皇が子のないまま崩御した後、皇位市辺押磐皇子の2人の子のいずれかが継ぐと見られていました。兄である億計尊(おけのみこと)*1、弟である弘計尊(をけのみこと)*2です。
実際に皇太子には兄の億計尊が就いていましたが、この兄弟、互いに譲り合って、皇位に就こうとしません*3
そこで、2人の姉(『古事記』では叔母)に当たる飯豊青皇女が、その宮である忍海角刺宮で仮に朝政を見たといいます。あくまで「臨時」のことではあったようですが(『書紀』には「臨朝秉政」との言葉で説明しています)、彼女が実際に「天皇同様」の地位にいたことは後の世でも明らかであったようです。平安時代末に興福寺の僧・皇円が書いた『扶桑略記』という歴史書では、彼女のことを「飯豊天皇、廿四代女帝」とはっきりと記しています。


…とまあ、ここまでは普通の古代史の話。
ここから先が、弊ブログの真骨頂です。


(かなりインモラルな内容になります。小さいお子ちゃんは寝てくだちゃいねー((C)小島奈津子))
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億計尊が清寧天皇の皇太子となった直後の『日本書紀』の清寧天皇三年秋七月の項に、忽然としてこのような記述が見られます。

飯豊皇女、於角刺宮、与夫初交、謂人曰、一知女道、又安可異、終不願交於男


…直訳してみます。情感を込めつつ。

飯豊皇女は、角刺宮において、初めて男と交わった。人に語って曰く、「ひととおり女の道を知ったけれど、どうってことはない。今後男とはしたくない」。


…ていうか、なぜ『書紀』は突然このプリンセスのロストヴァージンの話を掲載する必要があったのでしょうか? 何の脈絡もなしに。今日びのえっち系ビデオのインタビューでもあるまいし。明らかに前後の記述から内容的に浮いてるんですよね、この箇所*4。不思議は尽きません。世界中広しといえど、後世に処女喪失の様子をリアルに公式的な歴史書に伝え残されている女性なんて飯豊青皇女ぐらいのもんかもしれません。
それにしても、「どうってことはないから、今後したくない」とはこの姫さんも言ってくれます。よほどイヤな思いでもしたのでしょうか? 少なくとも、あまりいいものではなかったのは間違いないようです。まあ初めてだと…そのー、イタかったとかいろいろあったでしょうし(←大バカ)。
ここで俗物たる私が気になって仕方がないのは「で、相手は誰だったの? 誰? ねえ誰?」ということですが(←大バカ)、『書紀』の注によると「ここに夫ありと云える。いまだ詳(つまびら)かならず」とのことです。清寧天皇であったとも、弘計尊であったともいう説もありますが*5、真相は定かではありません。もっとも、一生1度の大切な経験を台無しにされた(であろう)女性にこんなこと言わしめた男性であるわけですから、もしかすると『書紀』の作者である舎人親王が気を遣って永遠に「誰であるか」を封印したのかもしれません。なんとなく、そんな気がしてならないのです。


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*1:後の第24代仁賢天皇

*2:後の第23代顕宗天皇

*3:研究者の間では「実際には2人の間で皇位継承争いがあった」と考える向きもあります。興味深いところです。

*4:この部分の前後は「夏四月七日、億計尊を皇太子とし、弘計尊を皇子とした」と「九月二日、臣・連を遣わして、民の風俗を巡察させられた」とフツーの治世の内容が語られています。それだけに、余計に奇異な印象受けるんですよねえ…。

*5:しかし弘計尊であったとしたならばタイヘンなことです。この2人、同父同母の姉と弟なわけですから。同父同母の兄弟姉妹が肉体関係を結ぶことがタブーであったことは、弊ブログの「日本史」カテゴリ1発目で書かせていただいたとおりです(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20050602#p3)。