「沖田くん、ここだ!」(堺雅人の声で)

さて、ずーっとお待たせしていました「山南敬助について」です。
当方思い入れが強すぎる人物ですゆえ、何回かのシリーズモノになるかもしれません。


…まずは「山南敬助って誰じゃらほい」という方のために、カンタンな解説を。

山南敬助は、もともとは北辰一刀流を学んでいたものの、あるきっかけで近藤勇の道場「試衛館」の食客*1となります。そして、浪士組募集の際に近藤らとともに京へ向かい、新撰組誕生後には総長として近藤を支えました。
しかし、慶応元年(1865年)2月21日、突然隊を脱走して捕らえられ、「局を脱するを許さず」の局中法度に違反したかどで同月23日に切腹して果てました。その脱走の理由についてはいくつかの説がありますが、真相は不明のままです。


そもそも、私、当初は山南敬助には全く思い入れなかったんですよねえ。
終生のバイブルである『燃えよ剣』では敵役っぽく描かれていましたし。


それが。
新選組!』が始まって以来、土方歳三に傾倒しているはずの自分が、どうも違う人物に感情移入してドラマを見るようになってきていることに気がつきました。
山南敬助のことが気になって仕方がなくなってきたのです。
…後に理由の1つは「堺雅人が創り上げた『常に腕組みして、上目遣いで口元には微笑をたたえている。だけど目つきは鋭い』という、ドラマでおなじみのスタイル*2が自分自身の癖とそっくりだったと気づかされたから」と判明するのですが(笑)。


で、その頃。
ちょうど「山南切腹」に向かってドラマが1つの佳境に差しかかろうとしていた頃。
さんざん自分自身でも考えてみたんですね。
「…なぜ、彼は脱走したのだろうか?」と。


よく言われている説は。
「もともと尊王思想に寄っていた山南は、新撰組が佐幕色を色濃くしていくにつれて、次第に近藤・土方ラインと思想的に溝が生じるようになってきて、その結果隊を脱したのだ」というものです。
永倉新八の『新撰組顛末記』にもそれに近いことが書かれています。
後になって加盟した伊東甲子太郎と「隊を脱して別の行動をすることで2人の間で黙契があったのだ」という趣旨のことが。


また、「土方と対立し、近藤が土方ばかりを重んじるのに反目したのだ」という説もあります。
確かに彼は、土方によって「総長」という、名目上はNo.2であっても実質的には近藤勇の相談役程度の役職に棚上げされてしまいます。
そのことを恨んで、土方を憎むようになったのだという考えも、これまでずっとなされてきました。


…しかし。
どうにもシックリ来ませんでした。
個人的に。
なぜか。


山南敬助は、北辰一刀流免許皆伝だったものの、どちらかというと武の人というよりは文の人だったようで、頭脳明晰、温厚で繊細、物静かな人物だったと記録に残っています。
新撰組の屯所があった壬生でも「親切者は山南、松原*3」と慕われていたようです。
そのイメージと、近藤・土方と反目し合う山南のイメージとは、どうにもマッチしませんでした。
自分の中で。


また。
前述のように「近藤、土方と意見が食い違ってきたので、江戸に戻り新たな組織を結成するはずだった」という説もあります。
でも、私はそれも採りません。
彼は屯所を出てから、大津周辺に停泊していたといいます。
もし「江戸で何かをなすつもり」だったとしたら、彼は大津あたりでいつまでもウロウロはしていなかったはずです。
一刻も早く草津を越えたはずです。草津を越えれば、東海道中山道が分岐するので捜索は困難になるはずですし。


それらをいろいろ調べていくうちに。
これまで見落としていた、別の出来事が、自分の中で俄然クローズアップされるようになってきました。


★★予想どおり「ここで一旦切ります」になりました。人気blogランキング★★

*1:普段は居候している代わりに道場破りなど有事のときには一命を賭して戦う客分のこと。試衛館には、山南敬助のほかにも、永倉新八原田左之助藤堂平助など他流儀の剣(左之助に至っては槍)を学んだ剣客が食客として集っていました。彼らこそが、後に京に上って、壬生浪士組新撰組と隊が変遷していくなかで、幹部として隊の中枢を占めるようになるのでした。

*2:堺雅人は、「秀才で、温厚だけれど、どこか屈折したところを持ち合わせている」という山南像を表現するためにこのスタイルを確立したのだそうです。

*3:新撰組四番組長を務めた松原忠司のこと。