インサイダー?

阿部忠秋という人物をご存知でしょうか?
「知恵伊豆」と称された松平信綱とともに老中として3代将軍徳川家光に仕え、さらに息子の家綱がわずか11歳で4代将軍に就任するとその在任初期を支えた、優れた幕閣です。
由井正雪らによるいわゆる「慶安事変」の後に「浪人が江戸に増加するとまた世情不安になるので、浪人を江戸から追放しよう」という意見が老中のなかで出されたとき、ただ1人「浪人が江戸に集まるのは、職を求めてのことである。その浪人を諸国に追放するのは、政を行う者の道に反する」として反対し、その後浪人就業策を講じたり、末期養子の禁を緩和して浪人そのものの発生を抑えようとするなど、「寛文の治」と言われた家綱善政の陰の立役者でもあった人物です。


その阿部忠秋について調べていて。
スゴい説にブチ当たりました。


「振袖火事」として名高い明暦の大火は。
若くして亡くなった娘の振袖を本妙寺*1の境内で焼いているときに、火がついた振袖が風にあおられて舞い上がり、本堂に燃え移って大火になったという伝説がありますが。


この大火の本当の出火元は。
本妙寺の隣にあった阿部忠秋邸なのだというのです。


この説によると。
出火元が老中を務める阿部忠秋邸であったとあっては、幕府の威信に傷がつくことになるばかりか、忠秋を譴責することになるとその後の復興政策に重大な影響を及ぼすと危惧した松平信綱らの幕閣らが。
本妙寺に理由を説明したうえで、あえて「汚名を着て」もらったのだというのです。


事実。
あれだけの大火を出せば普通厳罰は免れないのに*2
本妙寺は全くの「お咎めなし」に終わっています。
さらに。
大火後、多くの寺院が幕府により強制的に移転を余儀なくされているなかで。
本妙寺は元あった場所に再建を許されています。
これだけの厚遇をされたということは、何がしかの理由があるのでは…と考えても不思議ではありません。


そして。
決定的な根拠として。


阿部家は、大火の後、大火の回向料を本妙寺に支払い続けているのです。
毎年毎年、実に大正12年まで約260年の間(!)。
それは「口止め料&迷惑料」だったのでは…と推測するのが自然ではないでしょうか。


しかし。だからと言って、阿部忠秋が「汚い責任逃れをしたのだ」というわけではないようです。
松平信綱の胸中には「復興政策には阿部忠秋は必要不可欠」という思いがあったのでしょう。
あえて汚名を着た本妙寺、心ならずも汚名を肩代わりしてもらった阿部忠秋、ともに心中は複雑だったことでしょう。


ちなみに。
本当の出火原因として。
「当日は朝から強風が吹き荒れていたので、阿部家では雨戸を閉めていたため屋内が暗く、女中が手燭を持って歩行中に躓いて転倒し、手燭の火が障子に燃え移った」という説があります。


※今回のエントリに際しては、以下のサイトを参考にさせていただきました(http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/taika/hurikaji.pdf)。


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*1:山号は「徳栄山」といい、もともとは文京区本郷丸山にあり、明治44年に現在の豊島区巣鴨5丁目に移転した日蓮宗の寺院です。境内には、遠山金四郎や剣豪・千葉周作の墓があることでも知られています。

*2:安永元年(1772年)の「目黒行人坂の大火」では、火元の寺であった大円寺は、弘化2年(1846年)に許可されるまで74年間も再建を許されなかったといいます。