義理の親子の相克

今日6月22日は。
第66代天皇である一条天皇が、32歳の若さで崩じた日です。*1 *2


一条天皇といえば。
清少納言の主人であった藤原定子
紫式部の主人であった藤原彰子
この2人の妃が嫁いだ天皇としてあまりにも有名です。
源氏物語』で卒論を書いた私としても、まさに在位期間ドンピシャの天皇なわけです。


そのうち。
彰子の父親は、藤原道長
言うまでもなく、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることのなしと思へば」という歌でおなじみの、藤原摂関政治の絶頂期を築いた人物です。


道長は。
義理の息子に当たる一条天皇の在位中。
内覧*3左大臣として彼を支えました。
天皇も、義父である道長に表立って抗うことはありませんでした。


ところが。
古事談』という書物*4に、このようなエピソードが紹介されています。


一条天皇崩御の後。
道長天皇身の回りの品を整理していたら。
生前の天皇が書きつけていた反古を見つけました。
そこには、このような文章があったといいます。

叢蘭茂らんと欲すれど秋風吹き破る 王事を章らかにせんと欲すれど讒臣国を乱す

道長は「自分のことを書いたのだ」と思い、立腹して破り捨てた…といいます。


穏やかで、文と笛を愛し。
道長とぶつかることは1度たりとてなかったという一条天皇ではあったものの。
内心やはり鬱屈たるものがあったのでしょう。


藤原氏の摂関に頭を押さえられた平安期の歴代天皇
ミカドとはいっても、幸せだったとは限らなかったようです。
甥であり義理の息子であったことから比較的道長に厚遇された一条天皇ですらこのような不満を内心抱いていたのですから、無理やり退位させられた陽成天皇花山天皇、思いのままに政を行えなかった宇多天皇、様々な圧力をかけられた三条天皇などの憤懣はいかばかりだったことでしょうか。


★★一条朝についてはまたいずれ改めて語らせてください。準専門なもので。人気blogランキング★★

*1:恒例の「太陽暦に換算すると…」は「西暦1011年7月25日」です。

*2:今日の表題に「一条法皇崩御」とあるのを不審に読んだ方も少なくなかったと思いますが…。一条天皇は、病が重くなったのを受け、寛弘8年(1011年)6月13日、東宮居貞親王(後の三条天皇)に譲位し、出家します(法名は精進覚)。しかし、薬石効なく、その9日後に崩御しました。「法皇」であった実質的な期間がほとんどなかったので、印象が薄いのだと思います。

*3:天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書などの一切を先に見ることが許された令外官の役職。狭義では、摂政・関白が不在のときに、摂政・関白に準ずる地位として左大臣・右大臣・内大臣や大納言などが命じられたケースを指します。

*4:http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20050604#20050604f3