ふと気づいた。

相変わらず「○仁」ネタを引きずってる弊ブログですが…。


第89代後深草天皇の本名が「久仁」であるということは昨日お伝えしたとおりなんですが(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20060912#p1)。
それに関連して、気づいたことがあります。


鎌倉幕府の第8代将軍である、久明親王という人物がいます。前将軍である惟康親王が将軍の位を廃された跡を受けるべく京都から迎えられ、正応元年(1289年)10月9日に征夷大将軍に就任した人です*1


この親王の父親って。
誰あろう、後深草天皇なんですね*2


で。
今気づいたんですが。
天皇の本名が「久仁」で。
その皇子である親王の名前が「久明」。


「久」の字がカブってるんですよね。
実の親子ならでは…ですね。


後深草天皇の皇子は、7人いたとも9人いたとも伝えられているんですが、そのほとんどは出家して法親王となっているので、実名が伝わっていません。
現在に至るまで実名が明らかであるのは、早世した第1皇子の幸仁親王と、後に第92代伏見天皇となる第2皇子の煕仁親王と、この久明親王のみです。
幸仁親王伏見天皇の名前に「仁」がつけられたのは「将来の天皇たるべし」という父天皇の思いによるものと推察されますが*3、それ以外の皇子には比較的自由に名前をつけていたのかもしれません。
「(「生母の位が低い」などの理由で)皇位継承の可能性が少ない」というのが前提なんでしょうが。


受験日本史の問題で「久明親王の父親である天皇は誰か?」と聞かれたとしても。
後深草天皇の本名が「久仁」であることを知っていさえすれば、何の苦労もなくカンタンに正解できるんでしょうね(そんなディープな問題まず出ないでしょうけど)。
「単なる丸暗記ではなく、その裾野に広がる知識としっかりリンケージさせて覚えていくことに、日本史に限らず歴史学習の妙があるのではないかな」とふと思ったりしました。


★★こういう余計なネタを話し出すときっと止まらないであろう私は、おそらく日本史教師には向かないんでしょうね。人気blogランキング★★

*1:延慶元年(1308年)8月4日、将軍位を廃され京に戻されています。

*2:親王が誕生した当時には、既に退位して上皇となっていましたが。

*3:ちなみに、幸仁親王が亡くなったのは文永2年(1265年)で、伏見天皇が誕生したのも同年のことです。どちらが先だったかは幸仁親王の亡くなった日が判然としないので何ともいえませんが(伏見天皇の誕生日は4月23日)、伏見天皇に「仁」のつく名前がつけられたことから「幸仁親王が亡くなったのが先である」と見ることもできそうです。