古墳、古墳、古墳(2)

さて。
随分と間が空いてしまいましたが、古墳探訪の続編です。


渋るハラを抱え、不安におののきつつ、国道169号線を行くこと約2km弱。
国道右側に、渋谷向山古墳が見えてきました。
全長289m、全国第7位、奈良県内では第2位の大きさを誇る、日本屈指の巨大古墳です。


↓渋谷向山古墳の様子はこんなもん。正面のこんもりした墳丘は前方部です。


↓拝所です。

宮内庁によって景行天皇山辺道上陵に治定されています。


以下、大学院のレポートにも書けそうな内容の、非常にマニアックな注記となりますが…。
元禄期においては、景行天皇陵は現在の奈良県天理市上総にある王墓山古墳が当てられていました。
松下林見という人物が元禄9年(1696年)に著した『前王廟陵記』にもそのような記述がありますし、幕府が公式に行ったいわゆる「元禄の山陵修復」の記録である『諸陵周垣成就記』においても、編者である細井広澤は王墓山古墳を景行天皇陵に治定しています。
一方、享保期以降は、この渋谷向山古墳については崇神天皇陵と考えられていたようで、景行天皇陵は現在の崇神天皇陵である行燈山古墳がそれであると考えられていました。享保21年(1736年)に並河永という人物が著した『大和志』においてもその説が採られています。
幕末に「この両陵墓の治定は逆なのではないか」と初めて主張したのは、安政4年(1857年)に『藺笠(いがさ)のしずく』*1という著書のなかでそれを主張した谷森善臣です。そして、いわゆる「文久の山陵修復」を経て、両者が入れ替わって今日宮内庁が定めているとおりの治定で一応の確定を見ています*2
その出土品などから4世紀中葉から後半にかけての建造と考えられています。景行天皇の実在ウンヌンは置いておくとしても、相当の権力を持っていたヤマト地方の為政者が被葬者であることは間違いなさそうです。ちなみに、「文久の山陵修復」において前方部の周濠が拡張されたという見方が有力ですが、修復の様子を描いた例の『山陵図』によるとなんと「修復前には前方部に寺院らしき建物が建立されていた」ようです。


…胃腸が不穏でなければ。
もっとここで様々な思索をめぐらせたことですが。
「緊急自体勃発!」を怖れて、先を急ぐことにしました。


★★…まだまだ続くんですよ、これが。人気blogランキング★★

*1:いがさの最初の「藺」という文字は「蘭」という漢字の「東」が「隹」になったものです。携帯などから見るとバケている可能性もあるので注記しておきます。

*2:文久の山陵修復」が始まった頃にはまだ「渋谷向山古墳…崇神天皇陵、行燈山古墳…景行天皇陵」であるとして修復されていました。ともに天皇陵として扱われていたことから、その後の治定変更に際して特に追加修復の問題は派生しなかったようです。両者の治定がいつごろ入れ替わったかは私的には現時点では未定です。