「デッカイお年寄り」…ではない。
さて。
随分と間が空いてしまったような感もありますが、日本史クイズの正解です。
↓問題はこちら。
Q.彦根藩主で大老を務めた人物といえば井伊直弼が有名ですが、歴代彦根藩主で大老を務めた人物は直弼を含めて5人います。さて、寛文8年(1668年)11月19日に彦根藩主として初めて大老に就任した人物は誰でしょう?
一応。
こちらの用意した正解は。
第3代藩主の「井伊直澄」でした。
…しかし。
出題してから気がついたのですが。
実は、あまりいい問題ではありません。
というのも、「第2代藩主井伊直孝も、寛永9年(1632年)頃に大老格に任じられていたという見解もある」からです。
そも「大老の就任者については、研究者の見解によって一定しない」ようなのです。
『日本史必携』(吉川弘文館)の歴代大老の項には、井伊直澄の名前はありませんでした。
そこには、土井利勝、酒井忠勝、酒井忠清、堀田正俊、井伊直興(直該)、井伊直幸、井伊直亮、井伊直弼、酒井忠績の9人の名前が記載されていて、このような補注がありました。
この表は『柳営補任』(『大日本近世史料』)の「執事職」に記載される九名、「大老(元老)」に記載される十名のうち、大老職に就任したことが確実とみられる九名について、『柳営補任』の記事をもとにし、『徳川実記』『続徳川実記』(『新訂増補国史大系』)、『寛政重修諸家譜』を照合して作成した。(中略)
近世前半期の大老については不明な点が多く、従って補任者の確定も一概にはできないが、本表では美和信夫「江戸幕府大老就任者に関する考察」(『麗沢大学紀要』二六)の所説を参考にし、大老補任の確証が得られないものについては表記を差し控えた。すなわち「執事職」から井伊直興(直該)のみを採り、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・井伊直孝・松平清匡・松平(保科)正之・井伊直澄・松平(榊原)忠次の八名を除き、「大老(元老)」から酒井忠世と大老格側用人の松平(柳沢)吉保を削除した。
以上のことから。
井伊直澄もまた「大老に就任したか否かは、不確定要素も少なくない」と言わざるをえません。
この問題は。
就任年月日で一応の限定はされているものの。
「大老に就任した」という事実そのものがかなり流動的であり。
「信頼性においてかなり危ない問題である」と注記せざるをえないところです。
たいへん申し訳ありません。以後注意したいと思います。
井伊直澄について補足しておきます。
Wikipediaには「万治元年(1658年)、兄・井伊直縄が早世したため彦根藩嫡子となる。翌万治2年(1659年)、父・直孝が亡くなったためその跡を継いで彦根藩主となる。寛文8年(1668年)11月19日には大老に就任。延宝4年(1676年)1月3日、大老在職中に死去。享年52。後は直縄の長男で直澄の甥に当たる井伊直興が継いだ」とあります。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E8%88%88)。直孝にはもともと嫡男である長男の直滋がいたのですが、突然出家してしまい、嫡子が3男である直縄へと変更になりました。しかし、その直縄も藩主となる前に早世したので、直孝の5男であった弟の直澄が第3代藩主となったようです。
『ひこにゃんとお城で遊ぶ本』(サンライズ出版)によると、「直澄は直孝の遺訓を守ることに徹し、終生、質素倹約に努めつつ、武具を新調し、徳川の危機にはいつでも出陣できる用意を怠らず『武勇の彦根藩』を守りました」とあります。
直澄の後、前述のとおり、第4代藩主直興、第12代藩主直幸、第14代藩主直亮、そして第15代藩主直弼が大老に就任しています。
直興にいたっては、1度病気で大老を辞し隠居した後、第5代藩主直通、第6代藩主直恒が相次いで早世した後を受けて再び第7代藩主となり、大老にも再任されています。そのときは直該と改名していたようですが。
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