朝、通勤途上の電車の中で、

突然妻に。
小野好古って、どんな人だったっけ?」と聞かれました。


何気ない世間話の合間に、突然出てきたのがこの名前。
こうでないと、日本史マニアの妻は務まらないようです(笑)。


で、小野好古です。
藤原純友の乱の際に、討伐に向かった人物」という情報ぐらいしか自分は記憶していませんでした。


『世界大百科事典』(平凡社)には、このように記述されていました。

小野好古 884‐968(元慶8‐安和1)
おののよしふる

平安中期の官人。大宰大弐損絃の子、参議篁の孫。右衛門権佐などを経て右近衛少将に進み、940年(天慶3)追捕山陽南海凶賊使の長官として藤原純友追討に向かった。翌年5月純友は大宰府に放火し略奪を行ったが、追討軍はこれを追って筑前国博多津(福岡市)に攻めた。好古は陸路より、藤原慶幸大蔵春実らは海路より進んだが、春実の奮戦はとくにめざましく、純友は大敗して伊予国に逃れ、6月に殺され,好古は8月に帰京した。以後、左中弁、大宰大弐となって参議に昇り、のち弾正大弼、左大弁に任ぜられたが、ふたたび大弐となる。従三位に叙せられ、967年(康保4)致仕、翌年85歳で没した。彼はその官歴から武官としての才幹、吏務の練達、地方行政の手腕を兼備していたと想像されるが、またすぐれた歌人でもあった。その女(野内侍)に、のちの摂政藤原伊尹が通ったが、彼女も歌人であった。

小野篁の孫だったとは!
ということは、小野小町とは従兄妹だったということですよね。ほっほー。


さらに。
この事典には記載されていませんでしたが。
小野好古、なんと小野道風の兄なのだそうです。
思わぬところにリレーションシップが。


「追捕山陽南海凶賊使」ってのはなんともものものしい官職ですねえ。
一般には「追捕使」として知られているようですが、「山陽南海地区の凶賊を捕らえに行く追捕使」ということで、彼のケースにおいてはこちらの呼称のほうが正式名称だったのかもしれませんね。


ちなみに。
日振島まで逃げ延びた藤原純友を捕らえて殺害したのは。
橘遠保なる人物のようです。
…あまり詳しくは存じ上げない人物なのですが。


★★いずれ補足が必要のようです、このネタ。人気blogランキング★★