万物は流転する

今日の表題でも取り上げている、室町幕府第10代将軍の足利義稙
2度将軍職に就任しながら、2度とも追われて、諸国を流浪したので、「流れ公方」と呼ばれたことでも知られています。


その彼ですが。
名前がコロコロ変わっているんですよね。


長享元年(1487年)8月29日に元服したときの名前は「義材(よしき)」
延徳2年(1490年)7月5日に1回目の征夷大将軍に就任したときは、この名前でした。


その後、将軍の位を追われて、復位を企てていた頃。
明応7年(1498年)8月19日に「義尹(よしただ)」と改名しています。
永正5年(1508年)7月1日に念願叶って晴れて将軍に復位したときは、この名前でした。


さらに。
永正10年(1513年)11月9日に「義稙(よしたね)」と再度改名しています。
今日では、この最後の名前「義稙」で統一されることが多いようです。
余談ですが、分国法『塵芥集』を編纂した戦国大名伊達稙宗の「稙」は、義稙から偏諱を受けたものです。


ところで。
以前弊ブログでも紹介させていただいた、等持院に収められていた足利義稙の木像の手首が持ち去られた事件ですが(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20081004#p1)。
(↓こちらは手首があった頃の写真)

その後どうなったんでしょうね。
出てきたのでしょうか、手首…。
追記:再確認したところ、手首取られたのは第12代足利義晴像でした。上記の写真も義晴のものです。よくよく確認せずに文章書いて申し訳ありませんでした。ここにお詫びとともに訂正させていただく次第です)


★★室町幕府晩期の将軍はみな悲劇の生涯を送ったようですね。人気blogランキング★★