承久の乱は本当に「謀叛」だったのか?(4)

…最終回となります。


これまで、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての「武士に奉じられるべき存在である天皇上皇」について、長きに渡って話をさせていただきました。
最後に、1つ付け加えておきたいことがあります。


承久の乱から時代を下ること、103年。
正中元年(1324年)に、後醍醐天皇による倒幕の企て、いわゆる「正中の変」が起こります。


その際。
倒幕を企てた後醍醐天皇に対して、幕府に仕えていた御家人の結城宗広が、書簡*1のなかで「当今御謀叛」という言葉を使用しています*2

この事実については、しっかりと目を留めておきたいと思います。


「謀叛」という言葉は、本来的にはどういう意味だったのでしょうか?
そう、「天皇に対し反逆を企てること」でした。
「謀叛」は、律令制度の頃から「八虐」の1つとして数えられた大罪でした。


しかし。
この14世紀頃まで時代が下ると。
幕府に仕える武士たちの間では。
天皇に対し反逆を企てること」であった「謀叛」という言葉の本来的意義は失われ。
自分たちの拠り所である幕府を脅かす者に対して「謀叛」という言葉を使用するようになっていたのでしょう。
そのことが、この書簡から窺うことができます。


時代の推移によって。
彼ら御家人にとって「天皇」や「朝廷」の存在は希薄なものとなっていたのでしょう。
そのため、よくよく考えてみると実に妙チキリンな「当今御謀叛」という言葉が生まれるに至ったのではないでしょうか。
そこに、承久期とは違った武士の「天皇」に対する考え方を見出すことができるのではないかと、私は考えるのです。


余談ですが。
今述べた「『天皇』や『朝廷』の存在は希薄なものとなっていた」ということは。
「大多数の御家人や悪党などの武士たちの間では」という前置きが必要なのかもしれません。


というのも。
後に、元弘の変の後、後醍醐天皇は幕府の手によって隠岐に配流されているのですが。
このときも、ちゃんと幕府は、それに先立って、持明院統後伏見上皇の皇子である量仁親王を新たに天皇の位に就けているのです(光厳天皇)。


このときの幕府の対応や。
前回の補注で紹介した足利尊氏光明天皇との関係を考えてみると。
少なくとも、幕府首脳や有力御家人の間では、この頃まで下ってもなお、天皇はまだまだ「奉じられるべき存在」だったと見ていいのではないかと思います。


後に。
康永元年(北朝南朝:興国3年)(1342年)9月6日、笠懸の帰り道に行き合った光厳上皇に向かって「何、院というか、犬というか、犬ならば射て落とさん」と駕籠に弓を射掛けた土岐頼遠のような存在も出てきますが*3
それらは例外的な存在だったのかもしれません。


…これまで、4回に渡って、鎌倉時代初期の武士の「天皇上皇観」を述べてきました。
いろいろなご意見・ご指摘、はたまたご感想をいただければ幸いです。


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*1:正中元年(1324年)9月26日付。現在は藤島神社福井県福井市)が所蔵していて、国重要文化財に指定されています。

*2:「当今」とは「現在の天皇」という意味です。すなわち「今上天皇」と同義語です。

*3:さすがに狼藉が過ぎたとして足利直義の怒りを買い、その年の12月1日に京都六角壬生で斬首刑に処されています。ちなみに、Wikipediaにはその理由について婆娑羅大名には多かれ少なかれ朝廷などの旧来の権威を軽んじる風潮があったが、直義にとって光厳上皇は兄・尊氏の征夷大将軍任命とそれを行った光明天皇の即位に対する大義名分を保障する唯一の権威(治天の君)であり、その権威を揺るがす行為を容認することは室町幕府の正統性そのものを否定することにもつながりかねない事と考えていた。そのため、兄・尊氏と室町幕府の正統性を守るためにも光厳上皇の権威の保持を功臣の生命よりも重んじたのである」とあります(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E9%81%A0)。誠に正鵠を射た文章であると思います。