なかなかに興味深い。

「信長の土塁、秀吉が再利用か」(http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20090909-OHT1T00222.htm

織田信長浅井長政との戦で拠点にしたとされる滋賀県長浜市横山城遺跡で、16世紀に築かれた土塁が見つかり、同市教育委員会が9日、発表した。
土塁は敵兵の侵入を防ぐのが目的。土を盛って補強された跡があり、市教委は文献の記録から「信長が小谷城攻めの前線基地として造った後、豊臣秀吉が改修した可能性がある」としている。
市教委によると、土塁は主郭(本丸)の西側で見つかった。岩盤を削って造った高さ約0・5メートル、幅2メートルの土塁の上に土が盛られ、高さ約0・7メートル、幅約4メートルになっていた。市教委は「補強時はもう少し高かったが、風雨で土が流れ落ちて今の高さになったのだろう」としている。
当時の文献には、浅井氏が立てこもっていた小谷城攻め(1573年)に向けて信長が横山城に陣取り、10年後の83年には秀吉が柴田勝家との賤ケ岳合戦に向けて城を修築したとあり、市教委はこの2時期に造られ、改修されたと推測した。
また、土塁の内側には掘っ立て柱建物と推定される直径約0・3〜0・5メートルの柱穴15カ所前後も見つかっており、市教委は兵士の小屋があったとみている。
12日に現地説明会が開かれる。問い合わせは同市文化財保護センター、0749(64)0395。


(写真:滋賀県長浜市横山城遺跡で見つかった土塁)

…このテの発見にはワクワクさせられますね。
なるほど、小谷城も賤ケ岳もそんなに遠い場所ではないですしね。


近隣で、こうした近世の埋蔵文化財遺跡が多くないものでして(古代や中世ならゴロゴロしているんですけど)。
かなり惹かれるものがあるのです。


横山城についての説明は、こちら(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD))。

横山城(よこやまじょう)は近江国坂田郡滋賀県長浜市堀部町・石田町)にあった城。山城。元亀年間(1570年‐1573年)の織田信長浅井長政の激しい戦いの拠点であり、信長の部将であった木下秀吉(のちの豊臣秀吉)が城番として守備していたことで知られる。
横山城は近江北部の浅井郡坂田郡とを分ける姉川の南岸の山の峰続きに永禄3年(1561年)、浅井長政が対六角氏用の防衛拠点として築城させた。城主には一門の浅井井演を任命した。
その後浅井氏は勢力を伸張して坂田郡から犬上郡まで勢力を広げるが、元亀元年(1570年)、織田信長とと交戦状態になり、再び横山城の重要性が高まった。横山城美濃国関ヶ原岐阜県関ケ原町)から浅井氏の本拠地である小谷城滋賀県湖北町)の西側を通る北陸脇往還街道のすぐ脇に立地するうえに、小谷城から6-7kmほどの距離しかないため、織田信長は重要な前線基地として横山城の攻略を目指した。同6月28日、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破った信長はすぐさま横山城の攻略に着手、時の城主三田村氏は降伏し、落城した。
信長は城番として木下秀吉を任命。秀吉はここを拠点として浅井氏攻略を行った。
天正元年(1573年)9月に浅井氏が滅亡すると、秀吉は浅井郡坂田郡の支配権を与えられ、本拠地として長浜城を築城。これに前後して横山城は廃城となったと考えられている。

Wikipediaによると「天正元年(1573年)には廃城となったと考えられる」ということですが。
件の新聞記事によると「豊臣秀吉が改修した可能性がある」ということらしいですね。
長浜市教育委員会が言うところの「文献の記録」の内容が気になるところです。


★★案外戦国史は不得手なのです。虚構と現実が入り乱れ過ぎて…。人気blogランキング★★