大発見

毛利元就重臣に宛てた手紙発見 どん欲に勢力拡大」(http://mainichi.jp/photo/news/20091030k0000m040153000c.html

戦国時代の武将、毛利元就(1497〜1571)が重臣に出したとみられる手紙1通が静岡県内の個人宅で見つかった。毛利氏が強力な戦国大名に成長する過渡期の史料で、実態が分かっていない家臣の名も登場することから、研究者は「元就研究や地方史にとり貴重な史料」としている。
手紙は縦28.5センチ、横44センチの和紙に書かれ、毛利家家臣の子孫の遺品の中から見つかった。解読した鴨川達夫・東京大史料編纂(へんさん)所准教授(戦国時代史)によると、内容や言葉遣いなどから元就が右筆(ゆうひつ)に書かせたものとみられる。花押(署名の下に書く印)を左側にずらして書く元就独特の特徴も見られるという。
元就の重臣で女婿の宍戸隆家あてで、元就が備後国涌喜(ゆき)村(現広島県庄原市)の小豪族、涌喜氏に「お墨付き」を与えることを涌喜氏に伝えるように隆家に指示する内容。天文22(1553)年12月14日に書かれたものと思われる。
これまで史料などで宍戸家では涌喜氏を自らの傘下に入れることを求めていたが、元就は拒否し、涌喜氏と直接主従関係を結ぼうとしていたことが分かっていた。今回発見の手紙により、涌喜氏側が元就に地位や領地の保全を求めていたことや、元就がそれを受け入れたことが判明。また、実態がほとんど分かっていなかった涌喜氏が元就にとって重要な家臣だったことが確認された。
毛利氏は2年後、戦国武将の陶晴賢(すえはるかた)を厳島の戦いで破り、一大勢力に成長。鴨川准教授は「当時の元就が貪欲(どんよく)に勢力を拡大していた様子がよく分かる」と話している。【栗原俊雄、棚部秀行】


(写真:発見された毛利元就のものとみられる手紙)

…こういうのを原文でスラスラ読めるようにならないといけないんだよな自分。
まだまだ勉強が足りません。
頭2文字の「涌喜」だけはかろうじて読めたんですけど。


★★平安時代の陰影本は学部在学中にかなり読まされたんですけど。人気blogランキング★★