それでも陵墓マニアは帰ってくる(4)

あまり間が空きすぎないうちに、つづき行ってみたいと思います。
今回で一気に前半戦を片づけてしまう予定。


鳥羽天皇陵を後にした直後。
車にトラブル発生。
ディーラーに緊急ピットインを余儀なくされてしまいました。


果たして。
ディーラーによると、修理には時間が掛かってしまうとのこと。
車を京都に預けて、日数を掛けて直してもらうしか選択肢はありませんでした。


かくして。
この後の移動は、電車・バスなどの公共交通機関を使用するしか手はなくなりました。


ディーラーでかなりの時間をロスしてしまったため。
新幹線で神奈川まで帰宅しなくてはならないことを計算に入れると、この後訪ねることができるのはいいところ1か所といったところです。


…見学場所の選択に。
迷いはありませんでした。


竹田駅から市営地下鉄烏丸線で京都駅まで出て。
京都駅で市バスに乗り換え、北野白梅町へ。
そして、北野白梅町から嵐電嵐電嵯峨駅*1


目指すは。
嵐電嵯峨駅からほど近い場所にある、長慶天皇陵です。


嵐電嵯峨駅で下車して、踏切を南に向かって横断すると。
↓そこはもう、陵墓の参道でした。

↓「長慶天皇陵参道」の道標。

↓駐車車両の横に「無断駐車禁止 宮内庁」の看板が(笑)。

↓歩いて行くと、そこに陵墓はありました。



↓「長慶天皇嵯峨東陵」の石碑。

↓右横には、長慶天皇の皇子である承朝王の墓もあります。

↓「長慶天皇皇子承朝王墓」の石碑。

しかし、広い陵域のように感じました。

オマケ。
↓傍らに、昔懐かしい焼却炉がありました。

昔通ってた小学校や中学校には普通にあったのですが、最近はダイオキシンとかの害が叫ばれているためか見ないですねえ。


ご存じのとおり。
長慶天皇といえば、江戸時代から「即位説」「非即位説」が喧々囂々取り沙汰されていた天皇です。
大日本史』は在位説、塙保己一は非在位説だったようです。


明治時代以降も、両者の議論は続き。
結局、在位が決定的とされ、詔書によって皇統譜に第98代天皇として歴代に加えられたのは、大正15年10月21日のことでした*2


ところが。
正式に歴代に加えられたのはよかったのですが。
その陵墓は、いまだ確定を見ていない状態のままでした。
歴代天皇の陵墓は、「未詳のままのものがないように」という明治政府の方針で、明治22年(1889年)までに全ての天皇の陵墓が治定を見ていたのですが、長慶天皇については、当時歴代に加えられていなかったこともあり、未確定のままとされていたのです。


長慶天皇
南北朝時代末期、南朝の勢いが完全に下火になっていた頃に在位・譲位し、崩御していたこともあり。
その晩年や最期を伝える資料はほぼ残っていない状態でした。
長慶天皇が歴代天皇に加えられた後、当時の宮内省も必死になって調査を続けたらしいのですが、陵墓を確定するに至る有力な史料を発見するには至りませんでした。


昭和10年(1935年)6月27日。
宮内大臣の諮問機関として「臨時陵墓調査委員会」なる機関が組織されました。
その目的の1つには「長慶天皇陵を決定する」ということがありました。
天皇陵論―聖域か文化財か』(外池昇:新人物往来社)の中に、第1回委員会開催当日における宮内大臣・湯浅倉平の挨拶が掲載されています。
天皇陵論―聖域か文化財か
その一部を引用します。

長慶天皇は大正十五年に大統(引用註*3天皇の血筋)に列せられ給ふたので御座居ますが、其の御陵は未だ御治定の運びに至りませぬのみならず、長慶天皇の御陵と伝へて居ります箇所でありまして今日迄宮内省の関知致して居ります所は、殆ど七十箇所にも達せんとする有様で御座います。然るに未だ御陵の存在に付て確たる手懸も発見せられませぬ。誠に恐懼(引用註、恐れかしこまること)に堪へぬ次第で御座います。

長慶天皇陵」という伝説を持つ場所は…なんと全国に70か所以上も! しかも、これらは年を重ねるごとにさらに増えていき、昭和14年6月30日の段階では実に107か所! 北は北海道(!)から南は九州まで、全国津々浦々に存在する有様でした。


これらのうち。
宮内省が「長慶天皇陵では?」と想定して「陵墓参考地」として管理していた場所が2か所ありました。
青森県の「相馬陵墓参考地」(現.弘前市神渡沢)と、和歌山県の「河根陵墓参考地」(現.伊都郡九度山町丹生川)です。
これらは、かなり早い時期から「御陵墓伝承地」、さらに「御陵墓参考地」として指定を受けていたようで、例えば、明治41年(1908年)10月8日に日吉明助が著した『皇陵及歴代御事蹟』(河合文港堂)では、正式に歴代に加えられる以前ではあったものの長慶天皇の項があり、その陵墓として掲載されていたのは「河根陵墓参考地」に当たる地でした。


さて。
臨時陵墓調査委員会でも、信憑性の高いところには現地調査に赴くなど審議を重ねていきましたが。
決定的な結論を出すには至りませんでした。


そのなかで。
浮上してきた場所がありました。
嵯峨にあった「慶寿院」の趾地です。
慶寿院とは、天竜寺の塔頭で、天皇の皇子である承朝王(海門承朝)が亡くなった場所でした。
かつ、『新葉和歌集』の奥書に「斯集南朝慶寿院法皇御在位之時」という記述があり、その「南朝慶寿院法皇」が長慶天皇のことであると考えられることから「長慶天皇は慶寿院で晩年を過ごし崩御したのだ」と考えられるに至りました。


かくして。
慶寿院趾地は。
昭和16年(1941年)9月27日、「長慶天皇ノ御陵所ニ擬スルノ説有之且同所ニ長慶天皇皇子承朝親王(ママ)墓ノ存スヘキハ疑フヘカラサル所ナルヲ以テ右慶寿院趾ノ主要部分ヲ一応陵墓参考地トシテ保存スルヲ適当ト被認候ニ付」として宮内大臣決裁を受け。
「下嵯峨陵墓参考地」として管理を受けるに至りました*4


ここで重要となるポイントが2つあります。
長慶天皇ノ御陵所ニ擬スル」の「擬スル」という部分と。
「慶寿院趾ノ主要部分ヲ一応陵墓参考地トシテ」の「一応」という部分です。


つまり。
「有力な候補地の1つである」ということではあっても。
決定打はなかったんです。
長慶天皇陵はここだ!」という。


それでも。
決定打がないからといって、未治定のままにすることは許されなかったのでしょう。
ここで浮かび上がってきたのが、「擬陵」という考え方でした。


もはや真に長慶天皇が眠る場所を探し当てるのは今後も不可能であるから。
最も可能性の高い地を陵墓に「擬して」治定してしまおう。
かつて、崇峻天皇陵、桓武天皇陵、二条天皇陵、安徳天皇陵、仲恭天皇陵、光明天皇陵も同様に遺骸が埋葬されているか否かを確認できないまま陵墓として治定した経緯があるので、今回もそれによってもよいのではないか。
…というのが、長慶天皇陵を「擬陵」という考え方を採って治定するロジックでした。


かくして。
検討を続けた結果。
長慶天皇陵は「慶寿院趾地が最も可能性が高い」として。
「下嵯峨陵墓参考地」が当てられることとなり。
昭和19年(1944年)2月11日に「長慶天皇嵯峨東陵」として正式に治定を見るに至りました。
このとき同時に、相馬陵墓参考地と河根陵墓参考地は陵墓参考地の指定を解除されています。


というわけで。
今回訪ねた長慶天皇陵が、実際に天皇が眠る地があるか否かは。
永遠に「藪の中」と言ってもいいようです。
新たな文献史料でも発見されない限り…ですが。


この長慶天皇陵。
修士論文で取り上げる候補の1つなので。
できるだけ早く訪ねてみたい陵墓でした。
トラブルによって一頓挫を余儀なくされましたが、それでも今回訪ねることができたのは祝着でした。


多少の充足感と。
予定していた陵墓の半分が後回しにならざるを得なかった挫折感が入り乱れて。
複雑な気持ちで長慶天皇陵を後にしました。


陵墓から参道に引き返すと。
小学生の男の子とその父親がキャッチボールをしていました。
余談ですが、この長慶天皇陵の参道、かなり広いんですよ。昭和になって整備されたからですかね。
「陵墓の参道でキャッチボール」、本来的にはあまり褒められたことではないのですが、なぜかホンワカした気持ちになったことをよく覚えています。


★★これにて、前半戦は幕です。人気blogランキング★★

*1:しかし…後からよくよく考えてみると、嵐電嵯峨駅が目的地なら京都駅から四条大宮経由のほうが早いし至便だったような気がします。ミスチョイスでした…。

*2:詳しくはこちら(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20090630#p1)をご参照ください。

*3:この「引用註」は全て著者によるものです。これ以降も同じです。

*4:この陵墓参考地に「下嵯峨陵墓参考地」という名称がつけられたのは、翌昭和17年(1942年)12月22日のことですが。