熱くはないが、決して冷めてはいないよ

今回は「鎌倉武士」についてちーっとばかし物したいと思います。


「鎌倉武士」というと、猪突猛進、敵に向かうときのみならず日常においてもオールウェイズホットなイメージあるかもしれません。
典型的なサンプルとして「和田義盛」1人挙げても充分でしょう。


そういう人ばかりだったんじゃないよ、というお話です。


今回の主人公の三浦義村
一直線なだけじゃなく、冷静沈着な目を持った人だったようです。


ご存知の通り、北条氏は、その権力を手中に収める過程で、様々な御家人たちをいろいろな手を使って排斥していきました。
梶原景時比企能員畠山重忠、そして和田義盛…。
直接手を下したものもあれば、間接的に滅びるのを待ったケースもありました*1
和田義盛なんかは、北条義時の挑発に絵に描いたように乗っかってしまって*2、「和田合戦」と呼ばれる戦を仕掛けた挙句一族全滅、ですから。一本気ではあったんですが、「猪武者」感は否めないところです。


ところが。
三浦義村
和田義盛の従兄弟に当たる人物ですが。
彼は義盛とはいささか違ったようです。
常に沈着に状況を読み、負ける勝負は絶対に仕掛けない。
そんなキャラだったようです。
三浦半島一円を支配する大豪族三浦氏の頭領なわけですから、「一族のため」という意識が日頃から頭の中にあったのかもしれません。


和田合戦のとき、彼は一旦は義盛とともに戦う盟約を結びます。
が。
土壇場になって、彼は北条方に寝返りを打つのです。
理由は定かではありませんが。
「和田方に勝てる見込みはない」と咄嗟に判断したからでしょうか。
ともあれ。
彼の帰趨が戦況を決する形になり、義盛は敗死、和田一族は全滅しました。


後日談ですが。
こんなエピソードが残されています。


建保7年(1219年)*3元旦、将軍源実朝の邸宅に御家人が集まって新年の賀を行っていたときのこと。
御家人のなかでも上座に座していた義村を差し置いて、若い千葉胤綱がさらに上座につこうとしたとき。
さすがにムッとした義村は、
「下総の犬は臥所を知らぬぞよ」
「下総の犬」、つまり胤綱は寝場所をわきまえない犬だ、と痛烈な悪口を飛ばしました。
それに対して。
若き胤綱も応戦して曰く、
「三浦の犬は友をくらふ也」
先の和田合戦で、従兄弟であり盟友であった義盛を裏切り、むざむざ死に追いやったことを、「友をくらふ」とこれまた痛烈な悪口で返しました。


このエピソードからも、生き残るためなら、たとえ血縁者でも切り捨てていく義村の冷徹さがいかに御家人たちの間に浸透していたかを窺い知ることができます。


三浦義村の話、もう1回続きます。人気blogランキング

*1:梶原景時なんか典型例ですよねえ。「66人の御家人連判による弾劾状」ですからねえ。

*2:謀反に加担した息子と甥の赦免を将軍源実朝に要求したところ、息子たちは許されたものの、甥だけは北条義時の意見でどうしても赦免されませんでした。そのうえ、義盛の面前で縄で縛られたたまま陸奥流罪となりました。和田義盛が北条憎しと兵を挙げた直接のきっかけになった事件と言われています。

*3:この年、4月12日に改元されて、承久元年となっています。