「廃帝」と呼ばれて

さて、「日本史」カテゴリです。
とっておきのネタ1つあるのですが、新婚1発目の「日本史」カテゴリのエントリにはどうにもえっち過ぎるので(笑)、別ネタにて。


今日10月23日は、第47代天皇淳仁天皇崩御した日です。
淳仁天皇は、例の孝謙称徳天皇が2度位に就いていた、その間に在位していた天皇です。父は『日本書紀』の編纂で有名な舎人親王*1藤原仲麻呂の長子真従(まより)の未亡人であった粟田諸姉(あわたのもろね)を妻としたことから仲麻呂のバックアップを全面的に受け、独身であった孝謙天皇の皇太子に就任。天平宝字2年(758年)8月1日、天皇より譲位を受けて即位します。このような経緯から、天皇としての権力は強くはなく、いわば仲麻呂のロボット的存在と言っても過言ではありませんでした。
彼の状況が変わったのは、例の孝謙上皇道鏡とのスキャンダルが発覚して以降のことです。この天皇上皇のことを諌めて、逆ギレされてしまいます。曰く「無礼、不敬の放言である」と。さすが「恋に盲目になった」状態の女性は無敵です。
このことをきっかけに、孝謙上皇は宣言してしまうんですね。「これ以後、通常の祭祀と小事は天皇が行い、国家全般に関する大事と賞罰は自分が行う」と。異例の「復活宣言」です。そりゃ天皇にしてみれば「顔色なし」です。
それ以上に自分の立場の危うさに危機感持ったのは仲麻呂でした。飛ぶ鳥を落とす勢いであったはずの天皇−自分のラインが、上皇道鏡のラインに取って代わられようとしているわけですから。焦った仲麻呂は、天平宝字8年(764年)9月、武力蜂起をもって失地回復を図ったものの、敗退し処刑されてしまいます。
そうなると、天皇の立場がどうなるかは…もうお分かりですね。天皇はその住居を塀に囲まれ、満足に衣服や履物も身に着けない状態で引き出されたまま、上皇によって「廃帝」の宣告を受けて、さらに淡路島に流刑のうえ幽閉されるという憂き目をみることになってしまいます。これにより、孝謙上皇重祚*2して称徳天皇となり、淳仁天皇は以降「淡路廃帝」という屈辱的な名前で呼ばれることになりました。
淡路島で不自由な幽閉生活を過ごすこと1年、天平神護元年(765年)10月22日、淳仁上皇は耐えきれずに逃走を図りますが、捕えられ、翌23日に崩御したと伝えられています。この不自然な死については、「リンチを受けて殺された」という見方が今日有力とされています。ある種、女帝と道鏡とのスキャンダルによる「犠牲者」である、と言えるかもしれません。「廃帝」という響きの、なんと悲しいことでしょうか。


1度淡路島にある淳仁天皇陵を訪ねてみたいと思っています。人気blogランキング

*1:息子が皇位に就いたことによって、舎人親王は実際には即位していないにもかかわらず「崇道尽敬皇帝(すどうじゅんぎょうこうてい)」の諡を受けています。

*2:1度位を退いた天皇が再度即位すること。孝謙称徳天皇のほかには、第35代皇極天皇が再度位に就いて第37代斉明天皇となった例があります。