私もまたまた勉強になりました。
「昭憲皇太后」から始まった一連の話題が、途切れることなくドンドン続いています。ありがたいことです。
andy22さんのところで、「英照皇太后」こと九条夙子のことが紹介されていました(http://d.hatena.ne.jp/andy22/20051102/p3)。
この女性、私が持っている『歴代皇后総覧』(「歴史と旅」臨時増刊55 秋田書店)の「中山慶子」*1の項にもちょろっと紹介されていたんですけど、そこには「皇后になれなかった」経緯として、こうありました。
いささか余談だが、女御夙子については、直ちに立后の儀を行ないたい旨を幕府に諮ったところ、准后宣下の後に立后あるべし、として反対された。結局、嘉永六年五月に准后の宣下が行なわれたが、その後立后の儀のないまま慶応四年(一八六八)三月に皇太后と尊称され、明治三十年(一八九七)一月の崩御に際して英照皇太后と追号された。
「嘉永六年」は1853年ですから、准后宣下から立后もないまま14年も放置されたことになります。幕府はなんでもって立后を拒み続けたんでしょうね? これまた興味の尽きないところです。
andy22さんのところでは、さらに第120代仁孝天皇の後宮についても言及されています。興味のある方はぜひ。ちなみに、仁孝天皇の典侍であり、孝明天皇の生母である正親町雅子(なおこ)は、嘉永3年(1850年)2月27日に「新待賢門院」の院号宣下を受けていますが、これが最後の「女院」宣下であるとのことです。