ラスト・エンプレス…卒業?

今日は第117代後桜町天皇崩御した日です。といっても、正確には文化10年(1813年)の「閏11月2日」のことなんですけど*1
皇室典範の改正が囁かれている昨今、これまでのところ「最後の女性天皇」であった彼女が「最後」でなくなる可能性が高くなってきたので俄然注目を浴びているところです。
弊ブログでも「ラテン語Wikipediaでは『サクラマティウス2世』という名前になっている」というネタでもって紹介したことあるのを覚えてくださっている方いらっしゃるかもしれません(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20050906#p1)。


宝暦12年(1762年)7月12日*2、第116代桃園天皇が22歳の若さで脚気衝心により崩御しました。本来跡を継ぐべき第1皇子の英仁親王がまだ5歳だったため、天皇の姉であり、英仁親王には伯母に当たる智子(としこ)内親王が、親王が成人するまでの中継ぎとして位に就くことになりました。これが後桜町天皇です。
天皇は、明和5年(1768年)2月に英仁親王を皇太子とし、翌々年の明和7年(1770年)11月24日*3親王に譲位し上皇となりました。23歳で践祚し、31歳で譲位した彼女、生涯独身のまま上皇として過ごすこと40年以上に及び、崩御したときは74歳でした。
彼女が成長を待った英仁親王は第118代後桃園天皇となりましたが、安永8年(1779年)10月29日、奇しくも父の桃園天皇と同じ22歳の若さで崩御しました*4。後桃園天皇には皇子がなく、皇女が1人あるのみだったので、急遽閑院宮家から兼仁(ともひと)親王が迎えられ*5、第119代光格天皇となりました。後桜町上皇は、幼い天皇の訓導にもよく尽力したとのことです*6


ここからは余談。
多少手前味噌めいて恐縮なんですが、自分、かつて某大学のクイズ研究会が主催するクイズ大会に出場させてもらったとき、「1762年に即位*7して…」でボタン押して「後桜町天皇!」と答えたことありました。
会場の喚声が心地よかったんですけど。
今だからザンゲしますが…。


あのときの正解。
カンだったんです。
ついつい勢いで押しちゃって。


偉くもなんともありませんでした、というお話でした。
後桜町天皇というと、ついついあの日のことを思い出してしまいます。


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*1:文化10年は11月の次に閏月がありました。ちなみに、クドいようですが、この日付は太陰暦によるものです。太陽暦に直すと1813年12月24日のことになります。おお、「クリスマス・イヴに昇天」。

*2:これは太陽暦に直すと1762年8月31日のことです。

*3:これがまた、太陽暦に直すと1771年1月9日のことになります。明和7年は本来1770年に当てはめられていますが、太陽暦に換算するとこんな形でズレが生じてしまうことになります。無理くり太陽暦の西暦に当てはめているわけですから仕方ないですよね。

*4:文献によっては「11月9日崩御」と伝えるものもあります。一定しないので、「太陽暦に直すと…」は省略させてください(笑)。

*5:彼、出家して聖護院に入る予定だったとのことです。

*6:Wikipediaによると「ことに寛政元年(1789年)の尊号事件に際し、「御代長久が第一の孝行」と言って光格天皇を諌めたことは有名である」とのことです。

*7:正しくは「践祚」です。彼女が即位したのは翌宝暦13年(1763年)11月27日のことです。