壮士の最期(1)

というわけで、しばらく「赤穂浪士切腹の風景」について語っていきたいと思います。
かつてあんな夢見た身でもあることですし(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20060116#p1)。
大岡越前については、またいずれ。


まず、第1回になる今回は、サクッと小ネタを。


昔の時代劇の中では、「大石内蔵助切腹は1番最後」というのが少なくありませんでした。
「皆の最期を見届けて、死出の旅に向かう」というのがリーダーっぽいからでしょうか。


実際には、それは大ウソです。
細川家お預けの17人の中で、大石内蔵助が1番最初に切腹しています。
江戸時代、この赤穂浪士のように複数の武士が切腹するような場合は、「身分や家禄が高い者が先」というのが定法でした。


これに関して。
1つエピソードがあります。
水野家お預けになった9人*1のケースです。


吉良上野介に1番槍をつけた間十次郎切腹から始まり、7人が首尾よく切腹を終え。
残されたのは、神崎与五郎三村次郎左衛門の2人。
神崎は5両3人扶持+役料5石、三村は7石2人扶持。
家禄は神崎のほうが上です。
次に切腹の座に呼ばれるのは、神崎のはずでした。


ところが。
次に呼ばれたのは、三村のほうでした。
これについては、単純ミスであったとも、「神崎を最後にするように」と家中で指示があったとも言われていますが、真相は定かでありません。


ただ。
順番を飛び越えられた神崎が大いに不満の念を持ったことだけは間違いないようです。
伝わるところによると、三村切腹後、最後に切腹の座に呼ばれた神崎は、「…いささか閉口でござる」と水野家の家士に対して不満を口にしたそうです。


江戸時代の武士は身分や名誉というものについてはカッチリとしたこだわりを持って生きていたということが、この神崎与五郎のエピソードから窺うことができます。


私なら少しでも後のほうがいいけどなあ…。人気blogランキング

*1:水野家お預けの浪士は、当初の名簿では10人でした。これは寺坂吉右衛門の名前も載っていたためです。彼が行方不明になったことを告げられた大目付の仙石伯耆守が「身分低いものゆえお構いなし」との断を下したことにより、寺坂が特に追求されることもなく、水野家お預けの浪士は9人となりました。