壮士の最期(2)

今日は「高田馬場の仇討ち」が行われた日です。
叔父・甥の契りを結んだ菅野六左衛門が村上庄兵衛と決闘するのを助太刀して名を上げた*1「中山安兵衛」。
彼は、後に請われて赤穂藩堀部弥兵衛の婿養子となり、堀部姓となります。
赤穂四十七士の1人である「堀部安兵衛」その人です。


彼が、元禄16年2月4日に最期を遂げたのは、伊予松山城主松平隠岐守の中屋敷
切腹順は、お預け10人のなかで、2番目でした。
1番は大石主税。部屋住ではありましたが、筆頭家老であり四十七士の頭目格であった大石内蔵助の嫡男。
第1番目の切腹は免れないところでした。
とはいえ、主税は数えでまだ16歳ということもあって、果たして首尾よく切腹を遂げることができるか、見苦しいことにならないか、ほかの9人の心配事はその1点のみであったといっても過言ではありませんでした。


切腹の朝。
安兵衛の顔色は優れなかったようです。
松平家の家中の者たちも、安兵衛の顔色が尋常でないのを見て「やはり命が惜しくなったのであろうか」「他の方々が泰然としているのに比べて、見苦しい」とヒソヒソ語っていたようです。


さて。
切腹の座に主税が呼ばれた、その瞬間。
「私もただいま参るべし」
と主税に語りかけた声がありました。


誰あろう。
堀部安兵衛、その人でした。


主税は、その声に勇気づけられたのか。
作法どおり、冷静に切腹を終えたといいます。


大石主税殿、首尾よく切腹
その声を聞いて。
安兵衛の顔色に安堵の表情が広がり、見る見る精気が戻ったといいます。


安兵衛は、臆したのではなく、主税の切腹が無事に終わるか、不調法なことにはならないか、それだけを案じていたのでした。


主税無事切腹の声を聞き、心から安心した安兵衛は。
続いて切腹の座に呼ばれ。
荒川十太夫介錯により堂々と切腹を遂げたといいます。


この「大石主税切腹を案じて顔色が優れなかった」というエピソードは、安兵衛ではなく大高源五であったという説もあります。
確かに、愁眉を帯びていた安兵衛が主税に「私もただいま参るべし」と語りかけたとは考えづらい面もありますし。


しかし、どちらであったにせよ、松平家お預けの浪士が皆で若い主税のことを案じ、心配していたということは間違いないようです。


余談ですが。
「東京紅團」というHPによると。
講談で安兵衛が酒を引っ掛けたという「小倉屋」という酒屋さんは。
現在ではローマ字で「KOKURAYA」という表記になっているようです(http://www.tokyo-kurenaidan.com/soseki2.htm)。


私も大学在学中にはここで何回か酒を買わせていただいたことあったのですが。
こんな由緒あるお店だとはつゆ知らずでした。
実にもったいないことしたもんです。


自分なら飲んで助太刀したら酔っ払ってるところをバッサリやられて終わり…です。人気blogランキング

*1:講談では「酒屋で1升引っ掛けた後、18人を切り倒した」とありますが、史実ではないようです。実際には、村上の助太刀に来た2人を相手にし、菅野と村上との1vs1の果たし合いが行われるサポートをしたというのが真相のようです。ただ、この助太刀によって安兵衛の名が江戸中に轟いたのは事実のようです。