史実と虚構の間。

お待たせしました。
山南敬助続編です。


前回のおさらい。
山南敬助が脱走した原因をずっと考えていた私でしたが、「土方と対立し、近藤が土方ばかりを重んじるのに反目した」「近藤、土方と意見が食い違ってきたので、江戸に戻り新たな組織を結成するはずだった」という従来の説にはイマイチシックリ来るものがありませんでした。


…ここで、もう1つ旧来言われていた説について追加・補足させていただきます。
「屯所の西本願寺移転に反対し、近藤・土方と反目したのだ」という説についてです。


この説については。
子母澤寛の『新選組始末記』にこのような記述があるのによると思われます。

その頃新選組が、西本願寺の集会所を、本営として借りたい為に、いろいろ難題を持ちかけているのが不賛成で、
「僧侶如きを相手にしているのは見苦しい事ではないか」
と度々近藤に諌言した。しかし近藤は、土方の方針を採用して、あくまでも本願寺へ屯所を移そうと策動し、山南の言を用いない。敬助は遂に憤慨して、
「自分は苟しくも総長(近藤局長の次位であった)である。この言の局長に容れられないのは一に土方歳三の奸媚に迷っているのである。かかる局長と、生死を共にする訳にはいかない」
と、その旨の一書を残して脱走した。

しかし。
この説も、盲信するにはキケンな説です。


というのは。
以前にもお話させていただいたことあるのですが。
子母澤寛のいわゆる「新選組三部作」といわれる作品には、かなりの部分で子母澤の虚構が含まれているらしいのです(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20050605#p2)。


『歴史と旅』平成元年9月号「特集・幕末維新臨終図巻」のなかに掲載されている「人斬り集団の破滅/新選組」(著:赤間倭子)によると、

シナリオライターのK氏が、子母澤寛氏から、山南敬助切腹の際にやっとかけつけて、涙ながら別れの哀切極まりないシーンを展開する恋人明里もフィクションであると聞かされ、さらに「面白い個所は全部といっていいほど、フィクションだよ」といわれたという。もしそれが事実だとしたら、作家としての子母澤氏の手腕にうなるばかりである。只、ただ……。

とのことです。


そうです。
子母澤寛は「小説家」だったのですから。
確かに八木為三郎氏などから証言を聞いて、それをもとにして執筆していたかもしれませんが。
作品としての完成度を追求するためにフィクションを取り入れたとしても、なんら責められないところです。
それを「史実」として鵜呑みにするのは、いかにもキケンだと思うのですが…。
例えは乱暴ですが、大河ドラマの『新選組!』で描かれていたことを100%史実として盲信するのとレヴェル的には変わらないのかな…と思います。


山南が西本願寺移転に対して反対していたというのは史実に近いかもしれませんが。
それがイコール「脱走の原因」というのは…チト理由が弱いのかな、と思います。
個人的には。


そこでかなり前置きが長くなりましたが。
前回紹介しようとしていた「これまで見落としていた、別の出来事が、自分の中で俄然クローズアップされるようになってきました」の出来事について紹介させていただきます。


…と思いましたが。
長くなりましたので。
次のエントリでということで。
ごめんなさい。


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