京へ!

長々と続いた山南編も、いよいよ今回で最終回になります。


これまで、延々と「山南敬助はなぜ脱走したのか?」を検証してきました。
で、結局のところ。
いくつか有力そうな説は絞れてきたものの。
「これだ!」という決定的な説を見つけるには至りませんでした。


最後になりますが。
ここからは、私の個人的な意見を語りたいと思います。
回想を交えながら。


一昨年の夏。
ちょうどNHK大河ドラマ新選組!』が放送されていた頃にも。
やはり「山南敬助はなぜ脱走したのか?」の答えを見つけたくて。
1人壬生に向かいました。
朝5時半に起きて、車を走らせて一路京都まで。
時間かかるかと思いましたが、東名−名阪を走っている時間は実質5時間足らず。
思いのほか早く着いてくれました。


車を走らせている間も、ずっと考えていました。
彼の脱走の理由を。


そして。
壬生に到着し、車を駐車場へと停めたちょうどそのとき。
ふと、1つの結論に達したのです。


「…彼は何かをしたかったわけではない。ただ単に、ここではないどこかに出掛けたかっただけ。自由になりたかっただけなんじゃないか」と。


彼は「脱走すれば切腹」ということは当然知っていたはず。
でも、「見つかって切腹になったとしてもそれはそれでかまわない」と思っていたんじゃないか。
自分から進んで死のうとは思わないけど、死ぬことになったとしても別にいいって。
それほどに繊細な彼の心は傷つきくたびれていたんじゃないか。


大津にいつまでもいたのも、もしかしたら「自分自身を見つけてほしい」という彼の最後のメッセージだったんじゃないか。
彼は新撰組の仲間に見つけてほしかった。
自分自身を見つけてほしかった。
そして、もし死ぬなら、仲間の目の前で最期を迎えたかったんじゃないか。


――今なら、「武人としては全く役目をなしていなかった、『名ばかりの総長』としての当時の彼の立場」がその結論を確固としたものとして強力に後押しくれるはずです。
でも、当時の自分は、そんな理論的支柱は持ち合わせていませんでした。
それでも。
そう思えてならなかったのです。
当時の自分でも。


ここに来て、やっと彼の本当の気持ちに辿りつけたような気がしました。
もちろん、彼の本心は、今となっては確かめるすべもありませんが。
でも、当時の自分には、そう思えてならなかったのです。


駐車場から歩いて、光縁寺に向かい。
彼の墓に手を合わせながら。
彼に語り掛けました。
「…あなたは、何が欲しかったのですか?」と。
当然、返事はありませんでしたが…。
自分としては。
なんとなくではありますが。
彼の答えを聞かされたような気がしてなりませんでした。
泣きたくなるような…だけど、どこか胸の奥の雲が晴れるような気持ちで光縁寺を後にしたのをよく覚えています。


カッチリとした、理論的な結論ではないかもしれませんが。
一連の山南敬助を語ったシリーズの、これが私からの結論とさせてください。


最後に余談を1つ。


堺雅人さんに『新選組!山南敬助役のオファーが来たのは、ちょうど映画『壬生義士伝』で沖田総司役を演じていて、クランクアップを迎えるか迎えないかという最中だったとのことです。
で、撮影のために彼が京都で泊まっていたホテルが。
ちょうど壬生の近くだったとのこと。


彼、光縁寺の山南の墓にソッコーで駆けつけて、手を合わせたらしいです。
「…あの、やるかどうかわかんないですけど、もしやるとしたらお願いします」というビミョーな頼み方で(笑)。


彼曰く、「山南敬助って、線が太くて、包容力あって、大人で…というイメージだったので、『…自分で大丈夫なのかな?』としばらく悩んだ」とのことですが。
それが今や「山南敬助堺雅人」というイメージを確立したのですから。


ビミョーなお願いをされた天の山南敬助が。
彼が手を合わせにきたときに、そっと力を貸してくれたのかもしれませんね。


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