今回も比較的小ネタ

明日は休日出勤なので、ほんのちょこっとなんだけど((C)プッチモニ。)(←古い…)、ネタをば。
妻と2人、ちょいと車を走らせながら、車載のDVDで『新選組!! 土方歳三 最期の一日』を見ていて、ふと思い出したネタです。


五稜郭のそばに。
四稜郭があるのをご存知ですか?


以下、市立函館博物館のHPより転載します(http://www.museum.hakodate.hokkaido.jp/collection/bunka/1_02.html)。

四稜郭は、明治2年(1869)の箱館戦争時に、五稜郭の北東約3㎞の丘陵上に急造された洋式築城法に基づく堡塁(ほうるい)である。
明治元年、鷲ノ木(現森町)に上陸後、五稜郭を占拠した旧幕府脱走軍は、松前方面を攻略し蝦夷地を領有したが、翌明治2年の新政府軍攻撃により次第に函館方面に後退することとなった。このため、主戦場となる函館近郊を一望でき、また同時に五稜郭および鎮守府である東照宮を防御するため築造されたものである。同年4月下旬から脱走軍兵士200名と付近の住民約100名を動員して、昼夜兼行の工事により短期間で完成したが、5月11日早朝からの新政府軍総攻撃により、わずか数時間で陥落したといわれている。
四稜郭の名は、蝶(ちょう)が羽を広げたような四稜の突角を有する形からその名が付けられたもので、史跡指定地は約21,500㎡の規模がある。地上遺構として、東西約100m、南北約70mの範囲に、幅5.4m、高さ約3mの土塁が巡り、その周辺には幅2.7m、深さ0.9mの空壕(からぼり)が掘られている。四隅には砲座が配置され、南西側には門口が設けられている。
土塁などの保存が良好なことなどから昭和9年(1934)国の史跡に指定され、昭和45年度から47年度にかけて、亀田町(昭和46年に亀田市となり、昭和48年には函館市と合併)が土塁修復と周辺の整備を行い、その後、平成2年(1990)度に函館市が再整備を実施した。

五稜郭は洋式軍学者の武田斐三郎によって幕末に建てられたれっきとした「城郭」ですが、四稜郭はただの「土塁」なんですね。箱館戦争時に建てられたというのも、5月11日(奇しくも土方の命日!)にわずか数時間であっけなく陥落したというのも初耳でした。


↓わんわんで訪ねてみたら、こんなんでした。


…これじゃどこにあるやら分からないと思うので。
五稜郭とのツーショットで。なにげに他の方が建てたおうちが、微笑ましくもあり、邪魔っけでもあり。


直線距離で、ざっと見積もって3kmちょっと…ってところでしょうか*1
存外五稜郭の近くにあるものです。
これは、何かの折にぜひ訪ねてみないと。


★★今度函館に行ったときには、ぜひ一本木関門跡地も訪ねたいと思っています。人気blogランキング★★

*1:…すみません。引用部に「五稜郭の北東約3㎞の丘陵上に急造された」ってキチンと書いてありましたね。