天才とナントカは紙一重…

さてさて、予告どおり高山彦九郎蒲生君平ネタです。
まず今回は高山彦九郎のほうから。


…生まれてくるのが50年ちょっとばかし早かった人、って印象があります。私個人としては。
根っからの「尊王派」。


でも。
いくら尊王の志が篤いからって。
足利尊氏の墓にムチ打つ」のはチトやりすぎではないでしょうか。


足利尊氏を「後醍醐天皇に反旗を翻して吉野に追いやり、室町幕府を開いた逆賊」と見なしたのは、徳川光圀によって編纂が始められた『大日本史』が嚆矢だったと記憶しています。
上野国新田郡細谷村(現.群馬県太田市)の出身だった彼は、諸国を漫遊しいろいろな人物と交流を持つ*1なかで、水戸藩の藤田幽谷*2とも交わったので、彼に影響を受けた部分もあるのでしょうが。
それにしても…「墓にムチ打つ」ってのはいささか「スマートさに欠けた行動」と言わざるをえません。このあたりの行動が彼の「奇人」としての名声(?)を高らしめた要因だったのでしょう。


それとツートップで並んで、彼の「奇人」としての行動で有名なものといえば。
三条大橋で皇居に向かって土下座しながら感涙」が挙げられます。
明和元年(1764年)、彼が初めて京都を訪れた際、感激のあまり思わずぬかづいた際のこととされています。
現在、そのときの様子を再現したものとして、京都・三条京阪駅のほど近いところに高山彦九郎が土下座している銅像があります。台座の揮毫は、なんとあの東郷平八郎。昭和3年につくられた後、戦時中の金属回収令で供出され、現在のものは昭和36年に再建された2代目なのだとか。京都の若者の間では「じゃあ、○時に『土下座像』前で」と待ち合わせスポットとして有名らしいです(←ホントですか?)。


ムチ打ったり、土下座したり。
このヒト、相当にエキセントリックだったと見えます。


そんなちょっと危なげな彼が、幕府によってほんまもんのマル危印を打たれてしまうのは。
「尊号事件」と呼ばれる事件に関連してのことでした。


桃園天皇が男子のないまま崩御した後。
閑院宮家から迎えられた兼仁親王が跡を継ぎ、光格天皇となりました。


天皇は、実父である閑院宮典仁親王が、「親王の地位は大臣よりも下である」と格下に扱われているのを憂慮して、父親王に対して太上天皇の尊号を奉ろうとし、幕府に奏上させました。
ところが、老中松平定信は「皇位についていない人間に尊号を贈るのは、前例がないし、名誉を私するものである」として、これに反対しました。
天皇は何度も幕府に対して尊号宣下の意思を伝えたものの、定信は頑としてこれを拒み続け、遂には中山愛親正親町公明の2人の公家を処罰するに至りました(中山愛親は閉門、正親町公明は逼塞処分)*3 *4


このとき。
彦九郎は、中山愛親の知遇を得ていたことが松平定信など幕府の警戒を呼び。
一時は豊後国日田において捕縛され、その後も幕府に行動を監視されるところとなり、家族にまで圧迫が加えられていたといいます。


それを悲嘆したのか。
生来のエキセントリックな性格ゆえか。
寛政6年(1793年)6月27日。
滞在中の久留米・森嘉膳宅において。
突然短刀を自らの腹に突き立て。
翌28日の午前8時ごろに他界したといいます*5
その行動ゆえの、不遇の最期だったと言えるのではないでしょうか。


しかし。
彼の尊王思想が幕末の尊皇派の志士たちに多大な影響を与えたことは。
ここで言うまでもありません。


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*1:そのなかには「寛政の三奇人」の仲間(?)である林子平もいました。

*2:藤田東湖の父親で、いわゆる「水戸学」の尊王攘夷論の基礎を確立した人物です。

*3:ここまで定信が強硬な姿勢を貫いた理由の1つに、「当時の将軍徳川家斉が実父の一橋治済に対して『大御所』の尊号を贈ろうとしていたのを遠回しに反対するためであった」と見る向きもあります。さらに付け加えると、程なくして定信が老中首座を追われたのは「実父を『大御所』と呼ぶのを反対されたのを家斉が恨んだため」という説も有力です。

*4:典仁親王は、明治17年1884年)、明治天皇から「慶光天皇」という追尊を贈られています。

*5:弊ブログでかつて「(没した日は)よくよく調べてみると『6月27日説』もあるようです」と書きましたが(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20060628#p1)、正確なところはここで記したとおりのようです(参考サイト:http://www.sunfield.ne.jp/~hikokuro/9sho-nenpyo.htm)。