壮士の最期(4)

「前回のエントリから何日空いてしまったのだろうか?」と計算するのもコワかったのですが、してみたら…なんと中230日! 空きすぎです! 申し訳ありませんでした。ちなみに前回のエントリはこちら(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20060527#p1)です。


1703年(元禄16年)2月4日、赤穂浪士46人が切腹したときの群像を綴っていたのが、この「壮士の最期」シリーズです。
いろいろと思いつくままに書いたり書かなかったり(苦笑)しているうちに、今年も間もなく46人の命日である2月4日がやってこようとしています。
というわけで、「いい加減再開しないと…」と思い腰を上げた次第。


今回は、浪士がお預けになった4家のなかで、毛利家にスポットを当ててみたいと思います。
「毛利家」といっても、萩の本家ではなく、分家の長府藩のほうがお預け役を仰せつかりました。


毛利家にお預けになった浪士は10人。細川家や松平家にお預けになった浪士が家格が高い面々であったのに対して、毛利家、水野家にお預けになった浪士は、比較的役職や石高が低かったり、部屋住だったりという面々が中心でした。
余談ですが、興味深い事実として、「親・兄弟は同じ大名家には預けず分散させるのが原則」だったようです。例を挙げれば、「大石内蔵助(父)…細川家、大石主税(子)…松平家」「堀部弥兵衛(養父)…細川家、堀部安兵衛(養子)…松平家」「間喜兵衛(父)…細川家、間十次郎(長男)…水野家、間新六(次男)…毛利家」といった類です。


毛利家の話に戻ります。
浪士を預かった4家のなかで、1番待遇が厳しかったのが毛利家であったといいます。
1説によると、浪士たちを収容した長屋の窓を板で打ちつけたり、10人の浪士をそれぞれ屏風で仕切って往来や会話まで禁止したと言われています。
どこまでが真相かは掴みかねますが。


さて。
浪士の切腹が決定したとき。
毛利家で一悶着が起こりました。


江戸時代も元禄の頃になると。
切腹は「武士としての体面を認めたうえで『自ら自決する』という形式上の扱いで死罪に処する」という性格を持ち合わせていただけで。
切腹刀を腹に突き刺す前に、刀や三方に手がかかった瞬間に介錯人は首を斬ってもよい」とされていました。
つまり、事実上は「斬首」と変わりはなかったのです。
「名誉な死」か「不名誉な死」か…の違いだけで。


というわけで。
実際に腹を切るわけではないのだから。
わざわざ刀を出す必要もないだろう…ということで。
「扇子腹」という形式を取ることがありました。


つまり。
切腹人に、小刀の代わりに扇子を差し出し、それで腹を切る真似事だけさせて首を落とす…といった方法です。
これを採るケースとして、大きく2つのパターンがありました。1つは「切腹人が不服の念を抱いているとき」。無闇に小刀など与えてしまったら、文字通り「返す刀」で介錯人を刺し殺して逃亡したりしかねないわけですから、そういう危険を未然に防ぐために扇子を与える…というケース。もう1つは「切腹人が臆病でありそうなとき」。刀をいざ目にすると恐れをなしてなかなか場が進んでいかなくなるのを避ける目的…というケースもあったようです。


浪士たちの切腹の際。
毛利家では、最初は「扇子腹」で済ませようとしていたらしいです。
実際に白扇を10本用意していたということです。


しかし。
念のため、切腹の検視役として毛利家に来訪した目付の鈴木次郎左衛門に毛利家より確認を取ったところ。
「それはあまりに浪士をないがしろにした扱いである。作法どおり、小刀を用意せよ」と反対されたことで。
「扇子腹」は実際には行われず、これまた念のために用意されていた小刀10本と差し替えられて切腹が行われることになったようです。


毛利家では。
浪士たちをあくまでも「罪人」として取り扱い、最期の瞬間まで「罪人」として処分しようとしたことがこのエピソードから窺うことができます。


かくして。
検視役の意向により、作法どおり「小刀を用いた切腹」が始まることになった毛利家ですが。
これによって、さらに思いもせぬ出来事が起こってしまうことになってしまいました。
以下次号。


★★「次号」はいつになってしまうのであろうか? また「中230日」にならなきゃいいけど…。人気blogランキング★★