スゴい!

「馬曳く人、セットで出土…大阪の待兼山古墳、埴輪復元」(http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070320i418.htm

大阪府豊中市の大阪大構内にある待兼山(まちかねやま)5号墳(5世紀末)で、最古級の馬を曳(ひ)く人物形と、馬形の埴輪(はにわ)がセットで出土し、20日、同大学が発表した。
2005年度の調査で、直径15メートルの円墳の周溝から埴輪片約5000点が出土、馬曳人形と馬形埴輪の破片はまとまって見つかった。
復元した結果、馬曳人形(高さ64センチ)は左手を上げて手綱を曳き、顔に入れ墨を線で刻んでいた。
馬形(高さ78センチ、長さ98センチ)は鞍(くら)やひづめなど細部まで表現されており、福永伸哉・大阪大大学院教授(考古学)は「大型前方後円墳の出土品と比べても遜色(そんしょく)のない出来栄え。新しい習俗の乗馬を取り込んだ埴輪の祭りが、広く浸透していたことがわかる」。

…こういうニュースを目にすると思わず血が騒がずにはいられないのが「日本史マニア魂」なんですよね。
早速、調べてみましたですよ。


大阪大学埋蔵文化財調査室 待兼山5号墳発掘調査速報」なるホームページにある「待兼山5号墳の概要」によりますと(http://www.let.osaka-u.ac.jp/maibun/matikaneyama5/5gogaiyo.htm)。

【5号墳の意義】
最大で墳丘長500m近い巨大古墳が築かれた古墳時代において、一辺10mの方墳とはいかにも小さく貧弱に思えます。
しかしながら、待兼山丘陵の所在する猪名川流域は、瀬戸内回廊の終着点として、ヤマト王権の重要な拠点のひとつであり、その拠点の実質的な運営を行ったであろう5号墳の被葬者像の解明は、文献では知ることのできない政治的、社会的な地方と中央の関係をしることのできる重要な手がかりとなり得るのです。

5世紀末というと、ちょうどいわゆる「河内王朝」が栄えていた頃であると推測されています。
記紀によれば、雄略天皇が初瀬朝倉宮(奈良県桜井市)で覇を唱えていた頃であると思われます。
以降の天皇も、清寧天皇が磐余甕栗宮(奈良県桜井市)、顕宗天皇が近飛鳥八釣宮(大阪府羽曳野市*1)、仁賢天皇が石上広高宮(奈良県天理市)、武烈天皇が泊瀬列城宮(奈良県桜井市)…と、顕宗天皇を除いては*2、いずれも「河内王朝」とは言っても、宮都は大和に置かれているような状態でした。
にもかかわらず、現在の大阪市の北隣にある豊中市にまで王権が及んでいて、このような形象埴輪が製造されていたことに驚きを禁じえません。


いずれにしても。
大学院での研究テーマと微妙に隣接した部分を抱合したネタでありますので、興味深く拝見しました。


まあ。
それよりなにより。
このニュースを見つけたときに最初に思ったことは。


…はに丸とひんべえ?


であったことも、紛れもない事実だったのですが。
(「はに丸とひんべえ」をご存知ない方はこちら(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20050705#20050705fn2)をどうぞ)


★★ちなみに、今泥酔してます。酔って論文書くほうがハカがいきそうな自分がコワいです。人気blogランキング★★

*1:奈良県高市郡明日香村である」という説もあります。ただ、允恭天皇の宮都が「遠飛鳥宮」と言ったのに対して顕宗天皇の宮都が「近飛鳥八釣宮」と呼ばれたという経緯があるので、この「遠近」については「難波を基準として」近かったのか遠かったのか、という観点からつけられた呼称であると考えれています。よって、自分は「羽曳野市説」を指示したいと思います。もっとも、顕宗天皇だけが忽然と大阪に宮都を置くのも何やら不自然な観も否定できないところですので、ここらへんは引き続き研究を続けていきたいと思っています。

*2:前記の注のとおりです。