陵墓マニア、まかり通る(1)

今回の肺炎騒ぎで、ずっとアップロードできませんでしたが…。
先月末の京都旅行について語りたいと思います。


東福寺で紅葉見たり。
初めて黒谷の金戒光明寺に行って、会津藩士墓地に感慨無量になったりしましたが。


今回の旅行。
道中で、思わずバッタリと天皇陵に行きつくことが多かったのですよ。
偶然の産物ですが。
陵墓マニアの真骨頂。


せっかくですので。
ここで、写真を交えて紹介させていただきたいと思います。


東福寺のほど近くで。
崇徳天皇皇后藤原聖子月輪南陵を見つけました。


高台にある、小ぢんまりとした墳墓でした。
もちろん、ここに実際に藤原聖子が埋葬されているかといわれると…「?」がいくつか残るところです。


さらに進むと。
仲恭天皇九條陵がありました。


承久の乱の直前、承久3年(1221年)4月20日践祚したものの。
乱後、父親である順徳上皇佐渡に配流となったことに伴い、7月9日に廃位の憂き目を見ました。
正式に即位礼をすることもない、わずか78日間の在位でした*1
そのため、正式な院号を受けることもなく、「九条廃帝」「半帝」「後廃帝」と称されていました。
仲恭天皇」という諡を贈られたのは、明治3年(1870年)のことです。


廃帝と呼ばれて。
わずか17歳で世を去った天皇の陵墓は。
緑に囲まれた、静かな場所にありました。
藤原聖子同様、ここに天皇が眠っているという確証はありませんが*2、この静かな場所で天皇の生前の苦悩が全て洗い流されてくれるのなら、それはそれでいいのかもなあ…なんて考えてしまいました。


★★しばらく続きます、このシリーズ。人気blogランキング★★

*1:ちなみに、この在位期間は、記録に残っている歴代天皇の最短在位記録です。

*2:ていうか、「九条廃帝」と呼ばれて世に忘れ去られていたこの天皇の葬送を伝える文献が全く残っていない状態で、実際どこに葬られたのかは五里霧中なのだそうです。現治定陵は、天皇が退位後住んでいて、そこで崩じた、祖父・九条道家の「九条殿」があったと推定される辺りを、明治22年(1889年)に円憤に仕立て上げたのだとか(!)。Wikipediaによると「葬られた場所は不明であるが、京都市伏見区深草本山町にある九條陵(くじょうのみささぎ)が陵墓に指定されている。ただし、東山本町陵墓参考地(京都市東山区本町16丁目)を墓所とする伝承があり、より確かな可能性があるとされる」とのことです(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E6%81%AD%E5%A4%A9%E7%9A%87)。研究の待たれるところです(←アンタがしろって(笑))。