競馬界で「クロフネ来航」といえば2001年なわけなのですが…

10日付のエントリで。
自分、ダブルエラーこいてしまいました。
指摘してくださったChattertonさん、シシガタニさんにまずは御礼申し上げます。


どこの部分を間違えていたのかというと。
例の「(サスケハナ号以外の)残りの3隻の名前」です。


最初にアップした際には。

ミシシッピ号」「ポータハン号」「サラトガ号」です。

と書いていたのですが。
すかさずChattertonさんから指摘。
「× ポータハン → ○ ポーハタン」でした。
恥ずかしながら…これまでずーっと「ポータハン」って覚え間違いしてたんです自分。思い込みって恐ろしいですね。


さて。
件の箇所を訂正して一件落着と思いきや。
かつて日本史系クイズで鎬を削り合う仲だったシシガタニさんから再指摘。
字面ウンヌンではなく、そもそも船そのものをとっ違えていたという…。恥ずかしいミスでした。
「× ポーハタン → ○ プリマスとなります。


このあたりを詳しく説明しているサイトないかなあ…と思って巡回してみたら。
Wikipediaの「黒船来航」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%88%B9%E6%9D%A5%E8%88%AA)が簡潔明瞭でしたので、抜粋して引用します。

嘉永6年来航
(中略)
6月3日(7月8日)に浦賀沖に現れ日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍イギリス海軍の帆船とは違うものであった。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げていた。その様子から、日本人は「黒船」と呼んだ。
サラトガ浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピー」(USS Mississippi 同)、「サラトガ」(USS Saratoga 帆船)、「プリマス」(USS Plymouth 同)の巡洋艦四隻からなっていた。大砲は計100門あり、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを行い始めた。
(中略)
このときの様子は「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」(蒸気船と茶の上喜撰、4隻を4杯、茶で眠れなくなる様子を、黒船の騒ぎとかけた皮肉)という狂歌に詠まれている(ただし、同時代史料においては類似した句が見られるのみで、主に明治11年1878年)の『武江年表』や大正3年(1914年)『江戸時代落書類聚』など、明治以降に出典が見られることから、後世に喧伝された歌である可能性も指摘されている。また、上記のとおり、黒船4隻中、蒸気船は2艦のみである)。

嘉永7年来航
嘉永7年1月(1854年)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航した。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので、幕府は大いに焦った。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのである。ここに彼の外交手腕を見て取ることもできる。
1月14日(同年2月11日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、1月16日(同年2月13日)までに旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」、「ポーハタン」(USS Powhatan 以上、蒸気外輪フリゲート)、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「レキシントン」(以上、帆船)の巡洋艦六隻が到着した。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移った。2月6日に「サラトガ」、2月21日に「サプライ」(両帆船)が到着して計九隻の大艦隊が江戸湾に集結し、江戸はパニックに陥った(一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていた。また、勝手に舟を出してアメリカ人と接触する市民もいた。吉田松陰が外国留学のため密航を企てポーハタン号に接触したのはこの折である)。
(中略)
約1ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れた。3月3日(3月31日)、ペリーは約500名の兵員を以って武蔵国神奈川の横浜村(現神奈川県横浜市)に上陸し、全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれた。その後、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、5月25日に和親条約の細則を定めた全13箇条からなる下田条約を締結した。

…まとめると、「ポーハタン号が来航したのは、ペリー2度目の来航となる嘉永7年(1854年*1の際だった」ということのようです。


ポーハタン号が、その後どのような経過を辿ったかについてですが…。
英語版Wikipediaに、

During August 1855 Powhatan accompanied HMS Rattler in a successful raid against Chinese pirates off Kulan and reached the U.S. 14 February 1856 with the new treaty.

とあるので(http://en.wikipedia.org/wiki/USS_Powhatan_(1850))、中国経由で1856年2月14日(おそらく太陽暦)にアメリカ戻ったようです*2
その後、安政5年(1858年)6月に再度日本に来航したポーハタン号*3は、日米修好通商条約締結の舞台となっています。
その条約批准のため、万延元年(1860年)1月18日、正使・新見正興、副使・村垣範正、同・小栗忠順らからなる使節団が、ポーハタン号に乗ってワシントンに向かっています(シシガタニさんの「たしかポーハタンは新見正興とセットで」という指摘はこのことです)。このとき同行しているのが、かの有名な咸臨丸です。


…というわけでした。
繰り返しになりますが、Chattertonさん、シシガタニさん、ご指摘ありがとうございました。おかげで歴史的な流れを整理してうまくまとめることができました。


余談ですが。
「ポーハタン」とは。
16世紀末から17世紀にかけてヴァージニア一帯に勢力を築いていた大酋長の名前からつけられたそうです。
さらに余談ですが…ポーハタンの娘が、ディズニー映画で有名な、かのポカホンタスなのだそうです。


★★しかし…なんで「ポータハン」って覚え違いしてたんだろ自分? 人気blogランキング★★

*1:11月27日に改元されて、安政元年。

*2:すみません私の英語力ではこの程度の読解が限界です(苦笑)。

*3:ちなみに…タウンゼント=ハリスが安政3年(1856年)7月に初代駐日領事として来日した際に乗っていた船は「サンジャシント号」とのことです。