日本史マニアは、ついついこういったほうに目が行ってしまう。

本日は。
娘の初宮参りに行ってきました。


近所にある、平塚八幡宮という神社です。


商売柄。
こういう場所に行くと、由緒が気になって仕方がない自分がいるわけなのです。
まあ「…八幡宮だったら、主祭神応神天皇だろうなあ」というのは容易に想像がいったのですが。


帰宅後。
平塚八幡宮のホームページ(なるものもちゃんとある! いい時代になったものです)で、由緒を確認しました(http://www.hachiman.org/yuisyo.html)。

御祭神
応神天皇  (おうじんてんのう)
神功皇后  (じんぐうこうごう)
武内宿禰命 (たけのうちのすくねのみこと)


御由緒
社伝によりますと平穏な日々が続いていた相武(相模)の国に仁徳天皇の六十八年に大地震があり里人の苦しみの様を聞かれた天皇が国土安穏を祈願して應神天皇の御神霊をお祀りされたのが平塚八幡宮の始まりであります。そしてまた平和な日々が続きました。


推古天皇の御代にも大地震があり人々を案じられた天皇は当宮に「鎮地大神」の御宸筆を賜り宝剣「天晴彦」を御奉納になりました。
その後も朝廷の信頼厚く、また源頼朝公は夫人政子の安産を祈願して神馬(白馬)の献上、徳川家康公の参拝等多くの武人の信仰もあつめました。
江戸時代は家康公が社領を寄進し御神殿を、造営しました。


平塚は東海道第七の宿場として賑わい旅人は皆、旅行安全を祈り社頭は大いに栄えました。
明治二年 社僧 本誉還真は十八年かけて浄財を集め青銅鳥居を奉献、奉賛者名は今も鳥居に刻まれて境内にそびえております。
明治六年 官の達示により社名を「八幡神社」と改称しました。
明治二十七年 明治天皇 皇女常宮昌子内親王 周宮房子内親王がご参拝し社前に松樹をお手植え、神池に緋鯉をご放生になりました。
当時農業と漁業の盛んな町でしたが、大正十二年大震災の被害は大きく御社殿も崩壊しました。
昭和三年 御社殿は再建されましたが国際間の緊張は高まりついに大東亜戦争となり昭和二十年の空襲で全市崩壊状態になりましたが、終戦後は商業・工業都市として復興大発展し七夕祭は全国に知られ、当宮例大祭も千年余の歴史を持つ國府祭と共に、年々盛大になりました。


平塚八幡宮は、應神天皇神功皇后武内宿禰命を御祭神に、鶴峰山八幡宮と称し相模一国一社八幡宮として鎮地大神と仰がれ厄除神、招福神、文化神、母子神として多くの参拝者が後を断たず、繁栄を重ね 昭和五十六年輝かしい歴史と共に創祀千六百年を迎えました。
昭和五十三年 国と神社本庁の承認を得て、再び「平塚八幡宮」と改称、社頭の繁栄と共に「神事能」「歩射神事」「ぼんぼり祭」「子供まつり」等、新しい文化の交流の場として年々賑わい平塚市民の鎮守の杜として心のふるさととなっております。

…「仁徳天皇が」というのは、もちろん伝承上のことだけだと思います。
実際には平安時代中期から鎌倉時代にかけて勧請されてきたのが始まりと見るのが自然ではないかな…と個人的には思います。


式が始まると。
神官が直衣・烏帽子姿で出てきました。
リアルで直衣を見たのは生まれて初めてかもしれません。直衣1度でいいからぜひ着てみたい!(笑)
あと、祝詞の内容は、ほぼ理解ますね。「高校で習う古文」程度の文章でした。少なくとも、この前のスクーリングで読まされた古文書よりははるかに楽勝。


とりあえず。
これで、娘の無事の成長は、応神天皇神功皇后武内宿禰が見守ってくれることになりそうです(笑)。
娘よ、これで安心して2世日本史マニアの道を歩んでおくれ。


★★自分が「応神天皇」という名前を初めて知ったのは小学3年生のとき。人気blogランキング★★