承久の乱は本当に「謀叛」だったのか?(1)

…というわけで。
昨日予告させていただいたとおり、レポートの内容を少しだけ語らせてください。
不定期掲載になるかと思いますが。


吾妻鏡』承久3年5月19日条に。
御家人たちを前にして北条政子が行ったという演説の様子が掲載されています。
「皆心を一にして奉るべし。是最後の詞(ことば)なり」*1で始まる、有名な史料です。


そのなかでも。
特に自分が注目したい箇所は。
「今逆臣の讒により、非義の綸旨を下され」という部分です。
特に「非義の綸旨」という語句には、平安時代末期から鎌倉時代にかけての公卿や武士の「天皇」に対する考え方を紐解くヒントが大いに込められているのではないか…と自分は考えるのです。


吾妻鏡』に掲載されているところの今回の演説で、北条政子が語っているところの趣旨は。
後鳥羽上皇は、逆臣の讒言を信じて、義のない綸旨を出して北条義時追討を命じた」ということです。
つまり、政子が京都との戦いを御家人たちに促すスタンスとしては、あくまでも「讒言で後鳥羽を惑わせた逆臣たちを討ち取る」というものであり(この後政子はまさに「名を惜しむの族は、早く秀康*2胤義*3らを討ち取り」と述べています)、あくまで「後鳥羽その人に対して弓を向けるものではない」という姿勢を(形の上では)取っているのです。
このことには、大いに目を向けてしかるべきであろうと思うのです。


…一旦切ります。


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*1:原文は和様漢文。以下同じ。

*2:山田秀康。

*3:三浦胤義。