承久の乱は本当に「謀叛」だったのか?(2)

…前回のつづきです。


北条政子や義時など幕府首脳のスタンスとして「後鳥羽上皇その人に弓を向ける戦いではない」という姿勢を首尾一貫取っていた、ということには大いに目を向けるべきである…というのが前回までのあらましでした。
このことは、当時の人々が、「謀叛」、つまり「天皇上皇に対して反逆行為を行うこと」に対して非常に抵抗感を持っていた…ということの証明に他ならないと思うのです。


ここまで書くと。
「…それはおかしいでしょう。だって、平清盛後白河法皇を幽閉したじゃないですか?」と反論されるかもしれません。
…そう、事実として「平清盛後白河法皇を幽閉した」ことは間違いありません。


が。
ここで見落としてはならない点が1つあります。
平清盛後白河法皇を幽閉したという事実は、一見皇家に対して弓を引いているように見える行為です。
しかし…清盛もきちんと天皇上皇を奉じていたという事実を見落としてはならないであろうと思うのです。
後白河法皇幽閉」という清盛の行動は、清盛が奉じていた、高倉上皇であり、安徳天皇の存在があって、初めて正当化されるものであったのではないでしょうか。
その事実を見落とすと、当時の武士や貴族の「天皇」に対する考え方を大いに見誤ってしまう結果に陥ってしまうのではないかと思うのです。


頼朝をはじめ、東国の武士たちは、これまでも「皇族から発せられる命令――以仁王の令旨であったり、後白河法皇院宣であったり――を奉じて戦う」というスタンスは一貫して貫いていました。
源平の戦いは「後白河法皇の命令で戦う源氏」vs「安徳天皇を奉じて戦う平家」の戦いであった――と見るべきなのでしょう。
それぞれが、それぞれに「天皇(or上皇)を奉じて、自己の立場の正しさを主張して戦っていたのだ」ということは見落とすべきではないでしょう。
頼朝と義経の兄弟が争った際、両者が後白河法皇にそれぞれ相手方追討の院宣を求めたのも、同じメカニズムです。
彼らは、「天皇上皇の命令を受けて戦う」ことによって己の立場を常に正当化する必要があったはずですから。


しかし、今回北条義時は、命令を奉じるべき立場の後鳥羽上皇その人から追討の命令を受ける立場になってしまいました。
上皇に対して弓を引くことはできません。
ただし、幕府という自分たちの基盤を維持するためには、断固として火の粉を振り払わなくてはなりません。
――政子は、そして陰でシナリオを描いていたであろう義時ほか幕府首脳たちは、そのことについては重々承知をしていたはずです。
奉じるべき命令もなく、本来担ぐべき立場の後鳥羽たちに反旗を翻すという行為を正当化する着地点として「非義の綸旨を下さしめた逆臣たちを討ち取ること」を大義名分として選択したのは、周到な計算であり、かつ当時の人々の価値観としては当然の仕儀であったのではないかと自分は考えるのです。
一足飛びに「上皇を倒せ」というところにまでは、間違っても飛躍はしなかったはずです。
いや、「できなかった」はずです。
当時の人々の道徳観では。


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