そこのけそこのけ陵墓マニアが通る(3)

若干間が空いてしまいましたが。
つづきです。


水曜日。
これまた昼休みに。
さらに一念発起して、歩いてみることにしました。
バス停にして「千本北大路→金閣寺道→わら天神前→衣笠校前」の3区間を黙々と行脚。炎天下の中だったので汗ぐっしょりになりました。


そんな苦難の末に辿り着いたのは。
洛星高校のほど近くにある、二条天皇香隆寺陵です*1

↓長い参道のある陵墓です。

マツクイムシにやられて枯死にしたのでしょうか、松の木が1本伐採された跡が。

↓御手洗がありました(「おてあらい」ではありません)。

写真アップしませんでしたが、三条天皇陵にもありました、御手洗。
↓陵全景。

↓「二條天皇香隆寺陵」の石碑。


永万元年(1156年)7月28日。
既に位を退いて上皇となっていた天皇は、崩御しました。
その遺骸は、香隆寺の北東の野で荼毘に付され。
遺骨は、香隆寺の本堂に収められたといいます。


…が。
この香隆寺もまた、中世以降に廃絶し。
その所在地も、当然天皇の遺骨も行方不明となってしまいました。
そして、二条天皇陵は、三条天皇陵と同様に、江戸時代にはその位置が不明の状態でした。
文久の山陵修復の際にも、これまた三条天皇陵と同じく「取調中」とただ記録にあるのみでした。
Wikipediaにはそのあたりの経緯が、

1165年(永万元年)7月28日、二条院で崩御し、8月7日、香隆寺の北の野で火葬し、遺骨を一時香隆寺本堂に蔵め、二条院を移して三昧堂を建て、1236年(嘉禎2年)5月17日、遺骨をこの堂に蔵めた。中世に山稜の所在を失い、元禄年間の諸陵探索の際に定説を得なかった。黒川道祐は「雍州府志」で「二条院陵在洛北船岡山北麓、陵上有五輪石塔」といい、「前王廟陵記」はこれに従い、「歴帝陵考」で「愛宕郡舟岡山乾蓮台寺境内畑中に古家あり、後朱雀、堀河、二条三帝難決」という。陵上の石塔は千利休がその九輪で自らの塔を作りその他の部分は手水鉢を作ったという。もって山稜荒廃の状況を察することができよう。

と掲載されています(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87)。


位置は、松原説、衣笠山の東麓説、船岡山の北麓説…など多々あったようですが、いずれとも確定を見なかったようです。


明治22年(1889年)6月1日。
香隆寺があった場所を、現在の京都市上京区平野八丁柳町の場所に比定し。
その辺りに円丘を築いたのが、現在の二条天皇香隆寺陵です。


つまり。
換言すれば。
この陵墓は、「二条天皇が葬られた場所と推定されているところに建てられたものではあるものの、天皇の真陵であるという確証は乏しい」と言ってもいいでしょう。
もちろん「文献史料料上の確証がない」というだけですから、現在の治定陵周辺である可能性を全く否定するものでもないのですが、さりとて確証もまたない状態です。
現時点ではあくまでも「可能性はないこともない」というレヴェルでの話しかできようはずもありません。決定的な文献史料でも今後発見されない限り。


余談ですが。
二条天皇は、平治の乱が起こった当時在位していた天皇でした。
藤原信頼源義朝らに黒戸御所に監禁されたものの、女官の格好をして脱出した…というエピソードでも知られています。


在位中は、父親である後白河上皇院政を行っていましたが。
親政を行おうとする天皇の間は、しっくりといっていなかったようです。
上皇の意に背いて人事や政治を行ったようで、その辺りを「政道にはかなひ給へけれど、孝道には大に背けり」と世人が評した…と『源平盛衰記』に記載があります。
「末の世の賢王におはします」と『今鏡』が語った天皇ですが、永万元年(1156年)病に倒れ、6月25日に第2皇子順仁親王に位を譲り*2、7月28日に23歳の若さで崩御しました。


さらに余談。
二条天皇は。
2代前の近衛天皇の皇后であった*3太皇太后の藤原多子を、自らの后として再入内させています。
「二代の后」と世に称されるこの再入内劇は、当時の世にあってもなかなかにセンセーショナルだったようです。


この再入内劇の真相ですが。
二条天皇は、鳥羽天皇の皇后であった美福門院(藤原得子)の養子となっていたことから、美福門院の実子であった近衛天皇とは“義兄弟”ともいうべき間柄でした。
その“兄嫁”を娶ることによって、「自分こそ、鳥羽天皇から連なる正当な皇位継承者である」と対立していた父の後白河上皇にアピールする狙いがあったのだ…と見る向きがあります。
ただ、『平家物語』に多子と天皇について「永暦の比ほひは、御年廿二三にもやならせ給ひけむ。御さかりもすこし過させおはしますほどなり。しかれども、天下第一の美人の聞ましましければ主上色にのみそめる御心にて」と記載があることから、単に美貌の“兄嫁”に懸想しただけ…であったのかもしれません。
いずれにしても、この再入内は、多子にとっては不本意だったようで、「思ひきやうき身ながらにめぐりきて おなじ雲井の月を見むとは」という歌を残しています。


★★今回の陵墓シリーズ、次回で最終回です。人気blogランキング★★

*1:「香隆寺陵」の「隆」の字は正しくは「『生』の上に『一』が入る文字」のようですが…環境依存文字のようなので一般的な「隆」の字で代用します。

*2:順仁親王践祚して六条天皇となりました。数え年で2歳、満年齢では7か月(!)という異例の践祚でした。

*3:近衛天皇は17歳で早世しています。