そこのけそこのけ陵墓マニアが通る(4)

長いこと引っ張り続けてきましたが。
いよいよシリーズ最終回です。


木曜日。
スクーリングも4日目となると、いささか疲労も増してきてはいたのですが。
講義終了後、出町柳でバスを乗り継いで、京都大学農学部のそばまで出向きました。


日曜日。
京都に到着後、陽成天皇陵を訪ねた直後、近くまで来てはいたのですが。
パラパラと降ってきた小雨のせいで探訪を断念させられた陵墓に、リヴェンジするためでした。


後二条天皇北白河陵です。

↓これまた、二条天皇陵同様に、長い参道のある陵墓でした。

↓陵全景。

↓「後二條天皇北白河陵」の石碑。

隣接区域には。
後二条天皇の第1皇子で、後醍醐天皇の皇太子となるも早世した邦良親王の墓もあります。

後ろに見えるのは、京都大学農学部の校舎です。
↓石碑の「後二條天皇/皇子/邦良親王御墓」の文字に注目。

かつて説明させていただいたとおり(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20090808#p1)、大正15年3月9日に「天皇追号で『○○院天皇』とされているものは、これからは『院』の文字を省いて『○○天皇』と申し上げること」が決定されました。
これにより、各陵墓の石碑もまた「院」の文字を省いたものに建て替えられました(この後二条天皇陵の石碑も、大正時代に撮られた古写真の中では「後二條天皇北白河陵」となっていたのを確認できます)。
が…邦良親王墓の石碑のほうまでは手が回らなかったのでしょうか、大正15年以前のままの状態で今日我々の目に触れることができる状態です。


後二条天皇は。
延慶元年(1308年)8月25日に崩御*1
北白河殿に葬られたといいます。


この後二条天皇陵は。
江戸時代には既に現在地に治定されていたようで。
文久の山陵修復の際に陵墓が補修された様子が『文久山陵図』で確認することができます。
文久山陵図
その際、邦良親王墓も同時に補修されたようです。


この『文久山陵図』の本文のなかで。
ブログ「平安京閑話」でおなじみの山田邦和教授は、この後二条天皇陵について「この付近には追分町古墳群といわれる古墳時代後期の群集墳が確認されており、規模と形態の点からいうならば、現在の後二条天皇陵もまた古墳時代の古墳であってもおかしくないであろう」と指摘されています。
…難しいところです。


★★というわけで…今回の陵墓シリーズ、これにて完結です。人気blogランキング★★

*1:余談ですが、昨年(2008年)、天皇の崩後600年目に当たることから、今上天皇と皇后が北白河陵を参拝されています。さらに余談ですが…自分そのとき京都でニアミスしています