また鎌倉に行ってきました。

食道潰瘍にも負けず。
妻と娘を伴い、先週の土曜日に鎌倉に行ってきました。


今回訪ねたのは。
鎌倉宮という神社でした。
鎌倉の社寺のなかでは歴史は浅く、明治2年(1869年)、明治天皇建武の中興に尽力しながらも非業の最期を遂げた護良親王を祀る神社の造営を命じたのが始まりです。


↓拝殿と鳥居を望む風景。


拝観料を払い。
階段を上がると。
↓土牢があります。


建武元年(1334年)、後醍醐天皇の命により捕らえられた*1護良親王は。
鎌倉に護送され、東光寺裏の土牢に幽閉されたといいます*2
これが、11月15日の出来事でした。
そして、翌建武2年(1335年)7月23日、中先代の乱が起こり、足利直義北条時行に敗れた際、親王が時行に奉じられることを恐れた直義は、家臣である淵辺義博に命じて親王を殺害しました。
親王、時に28歳。9か月半の幽閉生活でした。


鎌倉宮の碑。


五箇条の御誓文教育勅語の碑もありました。



宮の近くに。
宮内庁指定の護良親王墓があります。
陵墓マニアとしては久しぶりにぜひ訪ねたかったのですが、石段を何百段も上がった場所にあるところなので、ベビーカーのチビ連れでは行くことができようはずもなく、あえなく断念。


余談ですが。
↓最寄りのバス停に注目。

弊ブログ開設8日目のエントリで「大塔宮護良親王」は「おおとうのみや もりよししんのう」と読むのが最近の日本史学会のトレンドである…と紹介させていただいたことありましたが(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20050609#p2)。
そちらでも書かせていただいたとおり、バス停の名称はいまだに「だいとうのみや」のままとなっています。


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*1:かつてはこれを「護良親王と対立した足利尊氏後醍醐天皇をそそのかした」と考えられていました。が、これは水戸学をベースとした「足利尊氏逆臣説」により長年信じられてきた先入観であると今日では考えられています。護良親王と尊氏が対立したのは確かに事実ですが、実際に彼が捕らえられた真相は「後醍醐天皇、並びにその妃である阿野廉子と彼との間に対立が生じた結果によるもの」であるといいます。

*2:ちなみに、鎌倉宮は東光寺の跡地に建てられたものです。