久しぶりにニュース読んでゾクゾクした。

「全国5番目の規模の河内大塚山古墳は未完? 初の立ち入り調査」(http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100219/acd1002190027000-n1.htm

宮内庁が「大塚陵墓参考地」として管理し、全国で5番目の規模を誇る巨大前方後円墳、河内大塚山古墳(全長335メートル、大阪府松原市羽曳野市)で18日、日本考古学協会などの研究者らが墳丘への初の立ち入り調査を行い、前方部が平坦(へいたん)だったことが分かった。通常の古墳の前方部は山のように盛り上がっていることから、古墳が未完成で被葬者が納められていない可能性が浮上し、新たな謎となった。
河内大塚山古墳は、これまでの宮内庁の測量調査で、後円部(高さ20メートル)に比べて前方部(高さ5メートル)が極端に低いとされているが、詳細は不明だった。立ち入り調査では、研究者は墳丘外縁部を歩いて全体の形状などを観察。その結果、前方部は後円部のような盛り土がほとんどなく、平坦だったことが判明した。
古墳は中世に城として利用されたと伝えられ、築城の際に前方部が平坦に整地されたとの見方もあったが、研究者からは「大量の土を移動させた痕跡も見当たらない」との意見が出され、前方部が未完成のまま造営工事が終了するという、巨大古墳では極めて異例な状況だった可能性が浮かび上がった。その一方、古墳の築造時期などに結びつく遺物などは見つからなかったという。
天皇陵や陵墓参考地については、宮内庁関係者以外は原則として墳丘に入ることができないが、平成20年から研究者らを対象に立ち入り調査が認められ、これまでに神功(じんぐう)皇后陵(奈良市)などで実施された。


(写真:河内大塚山古墳=08年12月、大阪府松原市

…河内大塚山古墳って。
「真の雄略天皇陵じゃないか」って説もある古墳ですよね。
現在宮内庁によって「雄略天皇丹比高鷲原陵」に治定されている古墳は、一見前方後円墳のように見えて、実は「丸山古墳」と呼ばれる円墳と「平塚古墳」と呼ばれる方墳を組み合わせたものであり、本来は別の古墳であった*1、そして、その規模から言ってもこれらが雄略天皇の真陵だとは到底考えられず、むしろ河内大塚山古墳のほうが雄略天皇と考えるのにふさわしいのではないか…というのは、明治時代に吉田東伍が主張して以来、今日一般的に信じられている説です*2


大塚山古墳の前方部がフラットなのは以前から知られていたのですが。
「前方部が未完成のまま造営工事が終了」というのは新しい説ですね。
さりとて、これが記事にあるように「大量の土を移動させた痕跡も見当たらない」のであるとするならば、多くの研究者が指摘するように「前方部が低く平坦であり大きく広がる古墳は、6世紀以降のものによく見られる傾向」と見ることもできるのであって、この新しい説に飛びつくのはちょち危険であるかもしれません。


もし大塚山古墳が6世紀以降のものであるとすれば。
5世紀後半に活躍したと考えられている雄略天皇とは、年代的なズレが生じてしまうことになります。
そうなると…「大塚山古墳が雄略天皇の真陵である」というこれまで広く信じられてきた説も一気に否定せざるを得なくなるところです。


今回の調査では。
考古学的に重要なファクターとなる「築造年代」につながる遺物は発見されませんでした。
これらが発見されたとき、一気に雄略天皇陵の真贋問題にけりがつく(あくまで「考古学上のみ」ですが)のかもしれません。
今城塚古墳が「本当は継体天皇陵である可能性が大」とされているように。


「陵墓マニア」を名乗るからには。
自分も、引き続き見守りつつ、自己の学習材料としていきたいと思っています。


★★もっと考古学分野も勉強し直さなきゃなあ自分…。人気blogランキング★★

*1:これら2つの古墳は、主軸がずれているので、もともと同一の墳墓だったと考えることはできないのだそうです。

*2:ただし、「丸山古墳はもともとは前方後円墳であったが後世に前方部が破壊されて、今日のように円墳としての姿となった」という説もあり、一概には語れないところです。