アンタ国文科出身でしょ?
昨日のエントリのオチで。
「『志太野坡』を素で知らない自分」と書いたのですが。
なんと「蕉門の十哲」の1人でした。
ああ恥ずかしい。
以下『世界大百科事典』(平凡社)より引用。
野坡 1662‐1740(寛文2‐元文5)
やば
江戸中期の俳人。姓は志太(しだ)、のち竹田。通称は弥助。越前福井の人。江戸の越後屋に奉公し、両替店の手代などを勤める。はじめ其角に師事し、1687年(貞享4)ごろ野馬の号で蕉門に登場するが、以後動静不明。93年(元禄6)から芭蕉に親炙(しんしゃ)し、翌年、孤屋、利牛と《炭俵》を共編、〈軽み〉の人事句で認められる。元禄末年ごろ俳諧宗匠となり、1704年(宝永1)大坂に移り、樗木社、浅生庵、無名庵高津野々翁などと号し、西国俳壇の経営に乗り出し、門下1000余人を有し、二十数編の俳書を後見した。ほかに《万句四之富士》《放生日》《六行会》などの編著があり、没後の句集に《野坡吟草》がある。忌日は1月3日、墓所は大坂小橋寺町の宝国寺。追善集に《三日之庵》《むすび塚集》などがある。〈長松(ちょうまつ)が親の名で来る御慶(ぎょけい)かな〉(《炭俵》)。
Wikipediaからも引用しましょうか(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E5%A4%AA%E9%87%8E%E5%9D%A1)。
志太 野坡(しだ やば、寛文2年1月3日(1662年2月21日) - 元文5年1月3日(1740年1月31日))は、江戸時代前期の俳諧師。別号に野馬、樗木社。
蕉門十哲の一人とされ、「軽み」の俳風では随一ともいわれた。
元々は両替商の三井越後屋に奉公し、番頭にまで登りつめた。
宝井其角に俳諧を学んだがのちに松尾芭蕉に入門する。 「炭俵」を編集した。
芭蕉没後、大阪に移り、俳諧に専念した。門人は西国四国中国に1000人を越えるほどだったという。
代表的な門人に後継者でもあり保護者でもあった湖白亭浮雲、広島地方で活動した多賀庵風律がいる。
ところで。
「蕉門の十哲」といっても。
一定しないのですね。
再びwikiより(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%89%E9%96%80%E5%8D%81%E5%93%B2)。
蕉門十哲(しょうもんじってつ)とは、松尾芭蕉の弟子の中で、特に優れた高弟10人を指していう。蕉門の十哲とも。
蕉門十哲とされるのは以下の10人である。
宝井其角(たからい きかく)
寛文元年(1661年) - 宝永4年(1707年) 蕉門第一の高弟。江戸座を開く。
服部嵐雪(はっとり らんせつ)
承応3年(1654年) - 宝永4年(1707年) 其角とならんで蕉門の双璧をなす。
森川許六(もりかわ きょりく)
明暦2年(1656年) - 正徳5年(1715年) 晩年になって入門。画の名人で芭蕉に画を教える。
向井去来(むかい きょらい)
慶安4年(1651年) - 宝永元年(1704年) 京都嵯峨野に別荘「落柿舎」を所有。芭蕉より野沢凡兆とともに「猿蓑」の編者に抜擢される。
各務支考(かがみ しこう)
寛文5年(1665年) - 享保16年(1731年)
内藤丈草(ないとう じょうそう)
寛文2年(1662年) - 宝永元年(1704年)
杉山杉風(すぎやま さんぷう)
正保4年(1647年) - 享保17年(1732年) 蕉門の代表的人物で芭蕉の経済的支援者。
立花北枝(たちばな ほくし)
生年不詳 - 享保3年(1718年) 「奥の細道」の道中の芭蕉と出会い入門。
志太野坡(しだ やば)
寛文2年(1662年) - 元文5年(1740年) 芭蕉の遺書を代筆。
越智越人(おち えつじん)
明暦2年(1656年) - 没年不詳 尾張蕉門の門人。「更科紀行」の旅に同行。
杉風・北枝・野坡・越人の代わりに以下の4人を加える説もある。
河合曾良(かわい そら)
慶安2年(1649年) - 宝永7年(1710年) 「奥の細道」の旅に同行。
広瀬惟然(ひろせ いねん)
慶安元年(1648年) - 正徳元年(1711年) 美濃蕉門の門人。関(現・岐阜県関市)に弁慶庵をむすぶ。
服部土芳(はっとり とほう)
明暦3年(1657年) - 享保15年(1730年)
天野桃隣(あまの とうりん)
寛永16年(1639年) - 享保4年(1719年) 芭蕉の縁者。芭蕉に許六を紹介。
他に、以下のような説もある。
俳人百家撰(与謝蕪村・編)
其角、嵐雪、去来、丈草、支考、北枝、許六、曾良、野坡、越人
芭蕉と蕉門十哲図(對雲・筆)
其角、嵐雪、去来、丈草、支考、北枝、許六、曾良、野坡、杉風
芭蕉と蕉門十哲図(南峯・筆)
其角、嵐雪、去来、丈草、支考、北枝、許六、曾良、越人、杉風
『世界大百科事典』には。
こう書いてありました。
許六の〈師の説〉に〈十哲の門人〉と見えるが、だれを数えるかは記されていない。その顔ぶれは諸書により異同があるが、1832年(天保3)刊の青々編《続俳家奇人談》に掲げられた蕪村の賛画にある、其角、嵐雪、去来、丈草、許六(きょりく)、杉風(さんぷう)、支考、野坡(やば)、越人(えつじん)、北枝(各項参照)をあげるのがふつうである。
…勝負の世界に身を置いていた頃には。
「河合曾良は蕉門の十哲の1人ではない」というのは定説として半ばコモンセンスとなっていたのですが。
彼を含む説もあったのですね。
★★さらなる勉強が必要な自分。人気blogランキング★★