心が寂しいと、人肌が恋しくなるものなのか…

久しぶりに。
ガッツリと日本史ネタいってみましょうか。


以前から機会があれば取り上げようと思っていた、この人についてです。


延喜10年(910年)の今日3月24日。
「二条后」と称された、清和天皇の女御・藤原高子が亡くなっています。


彼女が何といっても有名なのは「入内前に在原業平と深い関係にあった」という伝承によるもの…と言ってもよいでしょう。
その事実関係のほどはもはや確認することも至難の技ですので、現代においてはあくまで「想像の域」というレヴェルでの話です。が、これから紹介するエピソードをふまえたうえで考えると「…さもありなん」と思わされてしまうところなのです。
そのエピソードというのは…。


貞観8年(866年)12月27日に女御として清和天皇のもとに入内した*1高子は。
天皇との間に儲けた皇子・貞明親王が即位して陽成天皇となったことから、元慶6年(882年)皇太后の位を贈られました。
夫である清和天皇は元慶4年(880年)12月4日に崩御していますから*2寡婦として、国母として、恙無く暮らしていた…はずでした。


が。
そんな彼女が。
大スキャンダルの渦中の人となってしまいます。


寛平8年(896年)9月22日。
彼女は「東光寺の僧・善祐と密通した」という疑いにより。
太后の位を廃されてしまいます。
当時の天皇宇多天皇清和天皇からは3代後の天皇です。息子である陽成天皇摂政である藤原基経(彼女の同母兄)によって“狂気の帝”の烙印を押されたうえで退位させられ*3、基経によって擁立された光孝天皇、さらに次代の宇多天皇と代が替わるなかで突然起こった醜聞でした。
当時、彼女はなんと55歳! 現在の感覚でもけっこういいトシですが、40歳で長寿の賀を行っていた平安時代にあっては“老女”と言っても過言ではない年恰好でした。「皇太后」という地位にいた女性が起こした出来事ということもあって、そりゃもう、世上は騒然としたことでしょう。


この件についても。
真相は「藪の中」です。
ただ、この善祐と「不適切な関係」に陥る以前にも、善祐の師匠であり、彼女の発願により建立された東光寺の善祐の前の座主であった幽仙とも関係があったと噂になったという記事を『扶桑略記』に見つけることができることから、「夫亡き後の彼女は自らの欲の赴くままに奔放に性を重ねていたのだ」と見られてもまた仕方がないのかな…といったところです。


ここから先は自分の想像なのですが。
彼女を淫乱に駆り立てたのは…若い日に成就しなかった激しい恋ゆえではなかったのでしょうか。
業平と相想いながらも、周囲によって引き裂かれた、悲劇の恋。


そう考えると。
真偽のほども定かならざる業平との関係も、事実だったのでは…と思わされてしまうのです。


高等学校の古典の教材としてもしばしば採り上げられている『伊勢物語』第6段。
とても得られそうもなかった女を、ある夜盗んで連れ出した男。
高貴な女は、草の上に置いた夜露を知らず、「あれは何?」と男に尋ねます。
夜更けに雷雨が激しくなったので、あばら家に女を隠し、男は外で待っていたところ、女は鬼に1口で食べられてしまい、姿が見えなくなります。
男は地団駄を踏んで泣き、こんな歌を残しました。

白玉か何ぞと人の問ひし時 露と答へて消えなましものを

自分は高校1年生のときにこの話を習ったのですが、この歌、いい歌ですよね。「露と答へて消えなましものを」という反実仮想の部分が特に。「彼女と一緒に消えてしまいたかった…」という男の一途でかつ激しい想い。『伊勢物語』を彩る恋バナのなかでも、最も激しく、最も切ないものであると思うのです。


この段には。
こんな注記が最後につけられています。

これは、二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、容貌のいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出でたりけるを、御兄、堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下臈にて、内裏へ参りたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とどめて取り返したまうてけり。それをかく鬼とは言ふなりけり。まだいと若うて、后のただにおはしける時とや。

ハッキリと「二条の后」という言葉がここで残されています。
鬼に食べられたのではなく(そりゃそうだ…)、兄である基経(=堀河の大臣)らに連れ帰されたのだ…ということも。


伊勢物語』や他の作品を見る限り。
高子の業平に対する想いを直接的に見つけることはできません。
ただ、もう1つだけエピソードを紹介すると、貞観18年(876年)11月15日、高子が大原野行啓に出掛けた際、右近衛中将として供奉した業平が彼女の御車に対して「大原や小塩の山も今日こそは 神代のことも思ひいづらめ」という歌を詠んだといいます。「神代のこと」が何を暗示しているのか、そして、それに対して高子がいかに思ったか…想像するだにドキリとしてしまいます。


昔の男に対して。
遂げられなかった想いを引きずりつづけていて。
それゆえに、次から次へと他の男と肌を重ねていく女性。
…1,000年以上を経過した現代にだっていてもおかしくはなさげです。


単に彼女の奔放な性だけをいたずらにクローズアップするのではなく。
その背景の事情にまで目を向けたいものです。
(だからといって彼女の行為を正当化するものではありませんが…)


太后の位を廃された高子は。
14年の後、69歳を一期に他界します。
彼女に対して皇太后の位を復する詔が出されたのは、実に没後33年を経た天慶6年(943年)5月23日のことでした*4


※今回のエントリに際しては、雨海博洋「藤原高子」『歴史と旅臨時増刊「歴代皇后総覧」』(秋田書店 平成5年)を参考にさせていただきました。


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*1:高子25歳、清和天皇17歳(!)、政略結婚だったとはいえ、この逆転した年齢差はあまりにもアンバランスです。しかも…「25歳で入内」ということ自体があまりに高齢すぎてイレギュラーですし。

*2:陽成天皇への譲位は、崩御に先立つこと4年、貞観18年(876年)11月29日のことでした。譲位後、元慶3年(879年)5月に出家し、水尾山に隠棲し激しい仏道修行を行ったといいます。崩御後、水尾山に葬られました。今日伝わる清和天皇水尾山陵がそれとされていますが、真偽のほどについては…また勉強したいと思います。

*3:元慶7年(883年)11月10日、宮中で天皇の乳兄弟であった源益(すすむ)が撲殺されるという事件が起こりました。この事件の真犯人が陽成天皇であったという説があります。真偽のほどは不明ですが、天皇が直接手を下さないまでも殺害に関与していたのではないかという見方が今日なされています。この他にも、自身の娘を天皇に入内させようとしたのを高子に拒絶されたことによって基経と天皇(+高子)の関係が悪化したために陽成天皇は退位させられたのだという説もあります。

*4:詔の全文は、こちら(http://homepage2.nifty.com/hpsuiren/asobi/bunsui/hukugou.htm)のサイトに掲載されていますので、ご参照ください。