その燃えるような赤が自分は好きなのですが。

表題にもあるとおり。
嘉禎3年(1237年)の今日3月27日、藤原定家らとともに『新古今和歌集』の編纂に携わった歌人藤原家隆が没しています*1


家隆の墓所は。
大阪市天王寺区夕陽丘町にあり。
「家隆塚*2」と呼ばれています。
家隆は、嘉禎2年(1236年)、この付近の地に夕陽庵(せきようあん)という庵を結び、毎日夕陽を眺めながら極楽往生を願う「日想観(じっそうかん・にっそうかん)」をという修行に勤めたといいます。
そして、翌年、正座合掌しながら往生したとのことです。
家隆塚のある「夕陽丘」は、この「夕陽庵」に由来してつけられたものであるといいます。


ところで。
「家隆塚」や「夕陽丘」というと。
自分的には、『燃えよ剣』で土方とお雪が鳥羽伏見の敗戦の直後に2日間を共に過ごした「西昭庵」の場面を思い出さずにはいられません*3
(「西昭庵」は、この家隆塚にほど近いところにあった料亭です)

五輪塔があった。そのそばに碑があり、
「家隆塚(かりゅうづか)」
とよめた。
「私は無学でなにも知らないが、家隆とはどういうひとです」
「おおむかしの歌よみで、よほどここから見える夕陽が好きだったのでございましょう。夕陽ばかりをみていた、としか存じません」
「華やかなことが好きな人のようだな」
「夕陽が華やか?」
お雪は、歳三は変わっている、と思った。
第一、家隆卿(きょう)は、この地で、大阪湾(ちぬのうみ)に落ちてゆく夕陽の荘厳さをみて、弥陀(みだ)の本願が実在することを信ずるようになり、その辞世の句にも、「難波の海雲居になして眺(なが)むれば遠くも見えず弥陀の御国(みくに)は」と詠(よ)んだ。その歌からみても、この岡の夕景が好きだった家隆は、落日がはなやかだとはおもわなかったであろう。
「華やかでしょうか」
「ですよ」
歳三はいった。
「この世でもっとも華やかなものでしょう。もし、華やかでなければ、華やかたらしむべきものだ」
歳三は別のことをいっているらしい。

…土方をして「夕陽が華やか」と語らせる司馬遼太郎に。
唸らざるをえません。


ふと思ったのですが。
「夕陽=滅びゆく幕府」なのではないでしょうか。
それゆえ、作中の土方は「華やかたらしむべきもの」と語ったではないか…と考えると、妙に腑に落ちるのです。


ちなみに。
司馬遼太郎は、この夕陽丘から見る夕陽をたいへん気に入っていて。
若かりし頃、奥さんともよく来ていたのだとか。
その辺の思い出を、土方とお雪に仮託して作中に織り込んでいったのだとしたら…夕陽を「華やかたらしむべきもの」と思っていたのは実は司馬遼太郎本人だったのかもしれませんね。


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*1:毎度おなじみの「太陽暦に換算すると」でいえば「西暦1237年5月5日」のことになります。

*2:「かりゅうづか」と音読みで読むならわしなのだそうです。

*3:もちろんフィクションです。そもお雪自身が物語上創作された架空の人物ですし。