こういうのを研究しているときが1番楽しい。

陵墓めぐりのレポートは、一旦お休みです。
とはいっても、まるっきり無関係の話ではないのですが。


表題にもあるとおり。
貞応2年(1223年)の今日5月14日*1、「後高倉院」の追号で知られる守貞親王崩御しています。
彼の詳しいプロフィールについては、昔のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20090717#p1)をご一読いただければある程度は追っかけられると思いますので、そちらをご参照いただければ幸いです。


彼の崩御については。
4日後に鎌倉にも伝わったようで。
吾妻鏡』貞応2年5月18日条に

十八日 庚申 陰る。相州*2武州*3の飛脚京都より到来す。去ぬる十四日の午の尅、太上法皇持明院殿に崩御の由これを申す。御腫物によって数月御悩なり。尊号の後わづかに三ヶ年、御年四十五と云々。

という記述があります。
また、『百錬抄』貞応2年5月14日条にも

十四日、太上法皇崩御後高倉院と号し奉る。北白河に葬ると云々。

という記述を見ることができます。


ところが。
百錬抄』に「北白河に葬る」という記述を見ることができるにもかかわらず。
後高倉院の陵墓は、現在未詳の状態となったままです。
例の『山陵』(上野竹次郎:名著出版)でも、高倉天皇の項の末尾で後高倉院のことに触れられているのですが、後高倉院追号シ、北白川ニ葬リ奉ル。陵地未ダ決定セズ」と陵墓については「未定」としています。


もう1つだけ文献引用してみましょうか。
元治元年(1864年)に刊行された、京都の名所を紹介している『花洛名勝図会』という書物があるのですが。
そのなかに「後高倉院陵」という項目があって、次のように書かれています。

同村*4の北、竹林の中にあり。岡田宰賀の図に見えたり。高倉帝第二の皇子、二品守貞親王、出家して持明院と称す。後堀川(ママ)帝の御父なり。帝即位の後、太上天皇の尊号を奉る。百錬抄に云ふ「貞応二年五月十四日、太上法皇崩ず。北白河に葬ると云々」。

岡田宰賀については、詳細は不明です。
ただ、文化・文政年間に歴代天皇の陵墓について文献資料をもとに実地踏査して考証を加えた絵巻物『御陵図絵』を著したことで知られています(参考URL(http://www.pref.kyoto.jp/dezi/data/15.html))。
この本文中にある「岡田宰賀の図」というのは、あるいはこの『御陵図絵』のことなのかもしれません。


しかし。
このような文献があるにもかかわらず。
後高倉院の陵は、今日に至るまで未治定のままとなっているようです。


これに関しては。
歴代天皇の陵墓については、大日本帝国憲法発布時に「万世一系天皇の陵に未詳のものがあってはならない」という機運が沸き起こったことにより、明治22年(1889年)にそれまで未治定だった陵墓の治定があらかた確定され、歴代全て(当時歴代に加えられていなかった長慶天皇を除いて)の天皇の陵が揃う形になりました。
が、皇后の陵や皇子・皇女の墓などは、極力調査を重ねて治定していったようなのですが、いかんせん文献が乏しいこともあり、未治定のものが残ってしまっているようなのです。
そして、この後高倉院の陵もまた、その1つなのでしょう。


「北白川」としか文献で確認することができないのが痛いですね。
今日後二条天皇陵がある京都大学農学部の辺りなのでしょうか。


こうなると、岡田宰賀の『御陵図絵』が気になるところです。
機会があったら、1度目にしてみたいものです。


★★うまくオチがつけられませんでしたが、これにて。人気blogランキング★★

*1:毎度おなじみの「太陽暦に換算すると…」では「西暦1223年6月14日」のことになります。

*2:北条時房

*3:北条泰時

*4:聖護院村。