それでも陵墓マニアは帰ってくる(3)

随分間が空いてしまいました。
ほぼ1か月ですか。
あまりに空き過ぎてしまったので、前回のエントリのリンクを貼って誘導しておきたいと思います。
こちら(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20100504#p1)からどうぞ。


というわけで。
つづきいきます。


近衛天皇陵の北西、安楽寿院の西側に。
法華堂形式の陵墓を見つけることができます。
鳥羽天皇安楽寿院陵です。



↓「鳥羽天皇安楽寿院陵」の石碑。


写真のアングルが悪くて申し訳ないのですが。
門構えの奥に法華堂があります。
以前紹介させていただいた「京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内」さん(http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700)の「竹田の天皇陵その2(鳥羽天皇安楽寿院陵)」(http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/14062679.html)に、斜めのアングルから撮影された写真が掲載されています。そちらの写真をご覧になられると、法華堂がどんな様子て立っているのかがよく分かりますよ。


さて鳥羽天皇陵です。
安楽寿院が建てられた経緯は、近衛天皇陵の項で述べさせていただいたとおりです。
念のため、再度引用します。

安楽寿院とは。
鳥羽天皇が、自らが崩じた後に遺骨を納めるために建立した寺院です。
そう、彼の祖父であった白河天皇が成菩提院を建立したのと同じパターンです。


天皇は。
成菩提院と同じく、安楽寿院に三層塔を建立して、自らの陵墓となすつもりでした。
この塔は「本御塔」と呼ばれていました。

…もそっと詳しく説明します。
例の『山陵』(上野竹次郎:名著出版)より。

初メ天永元年六月三日天皇鳥羽ノ東殿ニ幸シ、仏塔ヲ建立スベキ地ヲ点定シタマヒ、遂ニ譲位ノ後、其ノ地ニ精舎ヲ営ミタマフ。保延三年十月十五日落慶ス。号シテ安楽寿院ト曰フ。界内ニ二基ノ塔ヲ造ル。一ハ方五間、東面三層塔ナリ。権中納言藤原家成、勅ヲ奉ジテ造進スル所、保延五年二月二十二日落慶ス。塔中に無量寿像ヲ安シ、又塔下地中ニ石櫃ヲ構フ。蓋シ天皇躬ラ崩後ノ山陵ニ擬シタマフ所、本御塔ト称ス。所謂安楽寿院陵其ノ遺墟ナリ。
(注.漢字表記の旧字は適宜新字に改めました。以下同じ)

鳥羽天皇が、自ら崩後葬られるべき塔として建立した「本御塔」は。
保延3年(1137年)10月15日に完成していた安楽寿院に遅れること1年と4か月、保延5年(1139年)2月22日に完成しました。
そして、保元元年(1156年)7月2日に崩じた天皇(当時は退位・出家していて法皇)は、その遺詔により、かねてからの宿願どおり本御塔に葬られました。
再び『山陵』から。

保元元年七月二日(中略)申刻鳥羽安楽寿院ノ御所ニ崩ジタマフ。御年五十四。追号シテ鳥羽院ト称シ奉ル。即夜御入棺。畢ッテ梓弓ヲ網代車ニ奉ジ、院庁官等轅ニ副ヒ、殿上人ノ炬火ヲ乗ル者、御車ノ前ニ進ミ、下北面ノ炬火ヲ乗ル者、御車ノ側ニ陪ス。(中略)御堂ノ東庭及ビ御塔ノ西林中ヲ経テ塔門ニ至リ、御車ヲ駐メ、御車ノ牀ヲ攪キ放チテ梓弓ヲ塔ノ壇上ニ移シ奉ル。導師呪願作法アリ、即チ梓弓ヲ塔下ニ斂メ奉ル。(中略)明日午刻ニ及ビテ、奉葬ノ儀畢ル。即チ塔ヲ以テ山陵ニ擬ス。蓋シ遺詔ニ因ルト云フ。

『山陵』は、様々な史料をもとに詳細な記述がなされていて、陵墓を研究する身としてとてもありがたいのですが、出典が明らかでない記述が少なくないのが玉にキズです。
これらの記述は、谷森善臣の『山陵考』に引用されている『人車記』(平安末期の公卿・平信範の日記『兵範記』の別名)にほぼ同様の記述があることから、『人車記』がソースと見て間違いないようです。


かくして。
東面三重塔の本御塔は、名実ともに「鳥羽天皇陵」となったのでした。


本御塔は。
近衛天皇陵の項でも紹介したとおり、永仁4年(1296年)8月30日に火災で焼失してしまいます。
その後、建武年間に後醍醐天皇の命により再建されたものの、天文17年(1548年)に再度火災により灰燼に帰してしまいます。
後奈良天皇がその年に再建について詔を発したようですが、朝廷がビンボーだった時代でもあり、実現には至らなかったようです。
そうこうしているうちに、例の「慶長伏見地震」の直撃を受け、建立当時の様子を最後まで伝えていた新御塔(近衛天皇陵)まで倒壊し、安楽寿院は壊滅的な打撃を受けてしまいます。


慶長17年(1612年)になって。
本御塔の跡地に、ようやっと仮堂が建立されました。
その後、文久の修陵の際、この仮堂は敷地の北外側に移設され、現在伝わる方形宝形造の法華堂が新造されました。
余談ですが、移設された仮堂は、その後安楽寿院の薬師堂となりましたが、昭和36年(1961年)の第二室戸台風によって倒壊してしまったとのことです。
(この部分は、『文久山陵図』(新人物往来社)より「鳥羽帝 安楽寿院本御塔」(山田邦和)を参考としました)


「かつて陵墓であった建物を、改修後に寺院の堂宇として使用し続けた」という事例が興味深いです。
近衛天皇陵の項でも触れましたが、この本御塔、「鳥羽天皇の埋葬地である」という認識は安楽寿院サイドとしては持っていたことと思われますが、現在のように陵墓と寺院の境界を厳然と区別はしていなかったのではないでょうか。
そうでないと、かつて陵墓であった建物を引き続き寺院の堂宇として使用し続けることの説明がつかないと思われるのですが…。


安楽寿院が。
鳥羽天皇近衛天皇の埋葬地であるということをしっかりと認識していたことを証明する史料があります。
先にもチラッと紹介させていただいた、谷森善臣の『山陵考』です。
以下、「安楽寿院御塔」より引用します。

すなはち御遺体を籠(こめ)させ給へりし御陵なり。然るに中ごろ此 御石棺を 宸筆の法華経を盛(いれ)たる石函ぞなと混(まきら)はしき説ともゝ聞えたれど、文化元年の春新御塔の供僧金蔵院泰深安楽寿院原要記を著して事実を證明にし、蒲生秀實の 山陵志にも又丁寧に辨へたれハ今煩しく述(い)はす

安楽寿院は。
供僧がハッキリと書き著したという事実からも分かるように。
自らの寺院の本御塔・新御塔に鳥羽天皇近衛天皇がそれぞれ眠っているという事実はちゃんとキャッチしていたところだと思います。
当然のことです。自分たちの寺院の出発点であり立脚点でもあったわけですから。


ただ。
今日宮内庁が厳然と管理を行っている「陵墓」というあり方では、自分たちの寺院そのものとこれらの塔については切り分けて考えてはいなかったことでしょう。
そこいらへんのところは、近衛天皇陵の項で引用させていただいた、高木博志さんの『陵墓と文化財の近代(日本史リブレット)』に書かれているとおりだと思います。


このあたりは。
もしかしたら、修士論文で取り上げる可能性が出てくるかもしれない部分ですので。
整理しつつ、しっかりと自分の中で咀嚼しておきたいと思います。


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