それでも陵墓マニアは帰ってくる(12)
つづきです。
仁明天皇陵を後にして。
名神高速道路をまたいで北側の、行き違いも困難な住宅街の中の細い道をうねうね進むうちに。
ものの5分ほどで、次の目的地、伏見区深草坊町に到着しました。
俗に「深草十二帝陵」といわれる。
法華堂形式の深草北陵です。
この陵墓。
平成6年に1度訪れたことがあるので、今回16年ぶりの来訪だったのですが。
往時と様子は変わっていました。
常駐していた宮内庁職員の姿は遂に確認することはできませんでした。国家公務員も人員削減の時代ですからねえ…。
駐車場(広くて助かった!)に車を停め、いざ陵墓へ。
↓これまたズラーリと並んでいます。
↓陵墓の参道。
左手の建物はかつて「宮内庁書陵部桃山監区深草部事務所」だったものですが…今現在もアクティヴなのかどうかは不明です。
前述のとおり、職員がいる気配はなさげだったのですが…。
↓陵全景。
↓このアングルだと、奥にある法華堂が方形堂であることがよくお分かりいただけるかと思います。
この深草北陵。
起源は、嘉元2年(1304年)7月16日の後深草天皇*1の崩御まで遡ります。
崩御の翌日に深草山で荼毘に付された後深草天皇の遺骨は。
翌嘉元3年(1305年)8月29日に新たに落慶した深草法華堂に納められました。
それ以降。
後深草天皇を祖とする持明院統の天皇、伏見天皇、後伏見天皇、後光厳天皇、後円融天皇、後小松天皇、称光天皇、後土御門天皇、後柏原天皇、後奈良天皇、正親町天皇、後陽成天皇…とこの法華堂に遺骨が納められています。
俗に「深草十二帝陵」と言われるゆえんです。
ただ。
「持明院統の天皇=即この法華堂に納骨されている」かというと…そうではありません。
後伏見天皇の異母弟である花園天皇は、十楽院という別の寺院で荼毘に付され、そのまま拾骨せずに土を封じて塔婆を立てたとされていますし*2、光厳天皇と後花園天皇、光明天皇と崇光天皇もそれぞれ別の寺院に葬られています(光厳天皇山国陵・後花園天皇後山国陵、光明天皇・崇光天皇大光明寺陵については、後日紹介させていただく予定です)。
後深草天皇の遺骨が納骨された法華堂は。
安楽行院という寺院の一部として建立されたものでしたが。
この寺院は、応仁の乱以降にお約束の「荒廃」を迎えてしまうことになります。
谷森善臣が著した『山陵考』の「深草法華堂」の項には。
明応9年(1500年)に崩御した後土御門天皇について「後土御門院御骨も、明応九年和長卿記に、(中略)奉籠深草法華堂とミえ、その注に、此法華堂、昔者安楽行院内一堂也、於本院者、久退転、此一堂相残許也とミえて、此時既に安楽行院ハ久く退廃して、たゝ法華堂のミ残在しとミえたり」とあります。
また、大永6年(1526年)に崩御した次の後柏原天皇については「後柏原院御骨も、大永六年二水記に、(中略)源宰相中将懸御骨於肩奉納深草云々――僧衆請取収之仍不見其所云々――とミえたるは、明応まで残在し、法華堂もはやく此十年許の間に荒廃して、たゝ其御遺跡のみなりしに依て、僧衆の請取て其所を見せ奉らさりしものなるか」とあります。
さらに、弘治3年(1557年)に崩御した次の後奈良天皇については「後奈良院の御骨も弘治三年記に、(中略)廣橋大納言――國光卿――懸御骨於首納于深草安楽行院とミえ、同御拾骨記にも、伝奏ハ即直ニ深草安楽行院ニ御骨奉納也ともミえたるハ、今にては法華堂も安楽行院もたゝ遺跡のミなるに依て、安楽行院の名をもて記したるものなれと、猶かの法華堂の御遺跡にこそ御骨は納奉けめ」とあります。
これらを整理するに。
…てなところでしょうか。
元和3年(1617年)。
後陽成天皇*3が崩御した際に、深草法華堂は再建されます。
『山陵考』に「されハ大永六年の御収骨*4よりこの元和三年御再興まで九十年許のほどハ、法華堂は荒廃したりしなるへけれと、荒廃なからに幾度も 御骨を納奉りて、御大切なる 御遺跡にてありけれは、元和再興の時まてハ、正しく其所知られたりしものなる故に、古図に図したるかことくに再造し給ひしものなるへし」とあるところから、元あった場所に再建されたと見てよいと思います。
その後。
寛文2年(1662年)には安楽行院も復興されましたが。
ほどなく深草法華堂は再び倒壊したようです。
元禄期に三たび再建されたといいます。
幕末の元治元年(1864年)8月から慶応元年(1865年)2月にかけて。
他の陵墓とともに修復を受け、深草法華堂もそれまでのものと比べて規模の大きいものに建て直されています。
その後、明治の神仏分離によって安楽行院と切り離されて、今日に至っているといいます。
陵の名前は、江戸時代から明治にかけては「深草法華堂」と称されていましたが、明治39年(1906年)に現在の「深草北陵」に改められました。これは、仁明天皇深草陵の北に位置するところからつけられたといいます。
…ところで。
素朴な疑問なのですが。
十二帝の遺骨、今もちゃんと深草北陵に納められているんでしょうかねえ…。
戦乱のドサクサで、行方不明になっていたりはしないんでしょうか…。
不謹慎ながら、ついつい想像してしまいます。
★★伏見区内の陵墓探訪は続く。人気blogランキング★★