それでも陵墓マニアは帰ってくる(13)

つづきです。


深草北陵を後にして。
JR奈良線の踏切を渡り、竹田街道まで出た後に、ひたすら南下。
進んでいくうちに、右手に御香宮が見えてきました。
新撰組マニアでもある自分、「おお! これが鳥羽伏見の戦いでおなじみの御香宮!」と感動。


御香宮前」の信号を左折し。
JR桃山駅方面に右に折れて、突き当たりを左に進んだ、伏見区桃山町泰長老に次の目的地はありました。


光明天皇崇光天皇の陵である、大光明寺陵です。


↓参道は、階段を上がったところにあります。

↓「陵墓敷地内イヌの散歩禁止」という意味なんでしょうけど…この看板はあんまりかも。イラストのイヌがかあいらしいだけに余計…。

↓陵の制札。

↓参道はチョー長かったんですが、除草作業中でした。炎天下の中お疲れさまです。右手の建物は近畿財務局桃山東合同宿舎らしいです。

↓汗かきかきしながら、ようやっと辿り着きました。



↓それぞれの石碑。崇光天皇のほうの後ろの灯籠には毎度おなじみの「大光明寺陵前」の文字を確認することができます。


光明天皇崇光天皇
それぞれ北朝天皇で、歴代125代にはカウントされていません。
後醍醐天皇に対抗する意味で、足利尊氏光厳上皇院宣のみで擁立し、神器なきままに践祚した光明天皇
観応の擾乱による影響で、いわゆる「正平一統」で廃位となった崇光天皇
動乱期ならではの、波乱に満ちた生涯であったと言えるでしょう。


光明天皇は。
康暦2年(北朝南朝:天授6年)(1380年)6月24日に崩御しました。
火葬に付された後、遺骨は伏見の大光明寺に納められたといいます。


この大光明寺という寺院は。
後伏見天皇の皇后であり、光明天皇の母であった広義門院西園寺寧子が、夢想疎石を開山として暦応2年(北朝南朝:延元4年)(1339年)に創建したものです。
母が創建した寺に遺骨が納められるというのも、考えてみればすんなりした流れです。


ただ。
異説もあります。
光明天皇は「大和の長谷寺崩御し、遺骨は大光明寺に納められた」というのが定説になっていますが、崩御の地については「摂津の勝尾寺だった」という説もあります。
そして、この勝尾寺には、光明天皇の墓として伝えられた石造七層塔があり、江戸時代にはむしろこちらの石塔のほうが「光明天皇陵である」として信じられていたようです。


一方。
崇光天皇は。
応永5年(1398年)1月13日に崩御しました。
遺体は崩御した伏見殿から大光明寺に遷され、23日に荼毘に付されたといいます*1
(余談ですが…天皇の火葬の儀は、当初は公卿たちの話し合いによって22日に行われる予定でした。が…火葬の際に下火*2を担当する予定だった鹿苑院の空谷という僧侶が、22日が陰陽道足利義満が衰日*3に当たることから異を唱えて、翌23日の火葬となったといいます。当時、足利義満の権力が朝廷のそれを上回っていたことを示すエピソードの1つと言っていいでしょう)


さて。
光明寺ですが。
お約束の「応仁の乱以降に荒廃」といった経過を辿り。
豊臣秀吉伏見城を築城するに当たり、文禄3年(1594年)に移転することになりました。
現在の上京区烏丸通上立売東入の地ににあり、相国寺塔頭として位置づけられている寺院がそれです。


跡地は伏見城の本丸とされたのですが。
慶長元年(1596年)閏7月13日に発生した例の「慶長伏見地震」の際に伏見城が倒壊すると、大光明寺の跡地は秀吉の信任厚かった相国寺僧録司西笑承兌(せいしょうじょうたい)の住坊として与えられました。
現在も地名に残る「泰長老」は、西笑承兌の通称「兌長老」が由来と言われています。
(以上、大光明寺移転関連は、『文久山陵図』(新人物往来社)より「崇光帝 大光明寺陵」(山田邦和)を参考としました)


光明寺相国寺に移転したことによって。
江戸時代はこの大光明寺陵の所在は失われ、元禄期、享保期には所在不明の状態でしたが。
元治元年(1864年)にようやく現在の地に所在を求めて、修陵が加えられました。
文久山陵図』を見ると、「荒蕪」図では竹林の中に4基の大石が見えていること*4、「成功」図ではそれらの大石の周囲に方形に空堀が巡らされ、西面して拝所と参道が設置されたことが窺われます(現在の大光明寺陵の拝所・参道は北面)。


ここでポイントとして指摘しておきたいことは。
この元治元年の修陵時においては、大光明寺陵はあくまで「崇光天皇陵」のみとして認識されていた――という点です。


光明天皇陵については。
相変わらず「所在不明」とされていました。
前述のとおり、摂津・勝尾寺にある石塔を光明天皇陵であるとした説が江戸時代には有力でしたが、それも決定打を欠く状態だったのでしょうか。
かくして、光明天皇陵は、明治初期、他の12天皇*5とともに未治定のままとされ。
明治22年(1889年)に大光明寺のあった場所に陵墓の所在を求め、崇光天皇陵と同域に治定される形で決着を見ました。
その際に再修復が加えられ、円墳に改められるとともに、拝所・参道が現在のように北面の形になったといいます。


なお。
制札の写真を見ていただければお分かりのとおり。
この大光明寺陵は、同域内に崇光天皇の孫である伏見宮治仁王*6の墓も治定されています。
開基である広義門院西園寺寧子との血縁から、大光明寺伏見宮代々の菩提寺となっていたことによるものと思われます。が、「…なぜ治仁王だけが大光明寺陵と同域に墓が治定されているの?」という疑問については…いまだ調査中です。今後の課題とさせてください。


さて。
この大光明寺陵の近くには、明治天皇伏見桃山陵桓武天皇柏原陵もあったので。
次はそちらに行く…という手もあったのですが。
猛暑に負けて、とりあえず撤収することに*7


いい機会なので、友人に教えてもらっていた妙心寺近くのお好み焼き屋「ジャンボ」で食事して。
そこから午後は文徳天皇陵を皮切りに調査するつもりだったのですが…。
ジャンボのジャンボっぷりにKOされて午後の調査が頓挫してしまったのは…既報のとおりです(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20100722#p1)。


かくして。
第1日目のレポートは、これにて完了。
次回は、第2日目、奈良県編です。


★★まだまだガッツリ続きますよ。人気blogランキング★★

*1:火葬の地について、例の『山陵』(上野竹次郎:名著出版)には「二十三日山作所ニ移シテ火葬シ奉ル」とあります。「山作所」とは「陵墓造営のため臨時に置かれた官司」のことであり、そのままイコール葬儀場や火葬所となったようです。大光明寺付近に設けられたと考えるのが至当ですが…それを裏付けられる文献は今のところ見つけられませんでした。

*2:「あこ」と読みます。禅宗において「火葬の際に導師が火をつけること」を指す言葉です。

*3:「万事に忌み慎むべき凶日」のことです。

*4:山田邦和教授は伏見城または豊光寺(注.西笑承兌が住坊としていた寺院)の石垣のものであったかもしれない」と記されています。

*5:顕宗、武烈、崇峻、村上、冷泉、円融、三条、後一条、二条、安徳、順徳、仲恭の各天皇。このうち、後一条天皇については、幕末から明治初期にかけて現陵が火葬塚として治定されていましたが、陵については未治定のままでした。その後、明治22年(1889年)に火葬塚を改めて陵として治定したのが、現在の菩提樹院陵です。

*6:崇光天皇の第1皇子である伏見宮栄仁親王の子です。応永23年(1416年)11月20日に父親王薨去の跡を受けて伏見宮家を相続していますが、翌応永24年(1417年)2月10日に急逝しています。

*7:今にして思えば…せっかく近くまで来ていたのだから、行っておけばよかったと思います。