そんな自分も、1つ提起をば。

今日の日付の真下に載せておいた「蘇我入鹿暗殺」についてです。
自分がここに掲載するネタ本として使っている『日本史365日』(『歴史と旅』昭和59年臨時増刊・秋田書店)という本には、6月12日の表題として「大化の改新」とありました。日本史の年号の暗記方法でも「ムシロ(645)ろされた蘇我入鹿」で「大化の改新=645年」と覚えたりしますし*1


でも。
大化の改新」って。
「公地公民制」とか「班田収授法」とかを整備していった、その後の国家改革の過程そのもののほうを指す言葉なんじゃないでしょうかね?
蘇我入鹿暗殺」というのは、その改革路線を進めるきっかけというか出発点になった出来事に過ぎないんじゃないかな、って。


私がここで言うまでもなく、最近の日本史の教科書では、この2つは全く別物として区別されていますね。
蘇我入鹿が暗殺され、さらに父親の蝦夷が自殺に追いやられた、中大兄皇子らのクーデターは、当時の十干十二支から「乙巳の変」と呼んでいます。
高校日本史教科書界で押しも押されぬエース格(と自分は勝手に呼んでいる(笑))の山川出版社『詳説日本史B』では

中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得て、王族中心の中央集権をめざし、645(大化元)年に蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした(乙巳の変)。

(中略)

…王権や中大兄皇子の権力が急速に拡大するなかで、中央集権化が進められた。こうした孝徳天皇時代の諸改革は「大化改新」といわれる。

と、両者を完全に区別しています。


ちょっと気になったので、ここで語らせていただいた、という次第です。


「乙巳の変」は「いっしのへん」と読みます。人気blogランキング

*1:しかし、よくよく冷静になって考えてみれば、「蒸し殺された」のは蘇我蝦夷であって入鹿ではないと思うのだが…。